松岡質問七〇項目中の二六から三〇
(二六)彦坂信夫(阿部日顕)は、大正十一年十二月十九日、東京市本所区向島小梅町一六五番地に生まれ、母の彦坂スマは翌年の一月十二日、信夫の出生届を出した。ところが父とされる阿部日開が信夫を認知したのは、昭和三年六月二十三日、信夫が六歳の時であった。それまでの間、信夫はいわゆる私生児の扱いを受けたことになる。そこで当事者である彦坂信夫=阿部日顕に聞くが、お前の父の日開は、なぜすぐにお前を認知しなかったのか。また、お前はなぜ、当時の法主の日開ではなく、日開と同郷の桜井仁道の弟子にならねばならなかったのか。宗内外の積年の疑問が氷解するような、道理を尽くした説明をせよ。
一、 拙著『阿部日顕の教学に対する十の批判』(以下『日顕宗学批判』と略記)の巻末には、日顕時代における大石寺・大納骨堂の内部写真が掲載されている。この写真は、青年僧侶改革同盟の岡崎雄直氏が大石寺に在勤中、当時の納骨関係の担当者だった川田法成(総本山塔中・報恩坊)の指示によって撮影した写真の中の一枚である。
私がこの写真を改めて取り上げたゆえんは「当時の大石寺では、信徒から預かった遺骨を、使い古しの米袋や黒ビニールのゴミ袋に詰め込み、乱暴に放置していた」という事実を証するためであり、私は阿部に「当時の大石寺の最高責任者として、どう道義的責任をとるのか」と迫った。ところが開き直った阿部は、「根拠もなく粗末な袋であるとの印象を与えようとしている」(十二月十三日付文書一二一頁)と呆れた弁解をしている。
日顕よ、お前には良心というものがないのか。もう一度、『日顕宗学批判』のをよく見るがよい。水浸しになって破れ、無惨にも遺骨が飛び出した米袋。米袋の上部は、茶色や白のガムテープが乱雑にペタペタと貼り付けられている。あるいは、まるで古新聞をくくるようにビニールヒモで十文字にギュウギュウに縛られている遺骨もある。大石寺に遺骨を預けられた方々は、「百聞は一見にしかず」でこの写真を見て激怒した。だから遺族の有志が訴訟を起こし、平成十五年四月八日、東京高裁は大石寺に対し、合計二百万円の慰謝料支払いの命令(後に最高裁で確定)を下したのではなかったのか。それを、いまだに開き直って「誤解」とうそぶくなど言語道断である。
しかも「御遺骨を安全に運搬するためには特に丈夫な袋が求められる。それが一般に米を入れるのに用いられる袋である」(同前)と言うに至っては、開いた口が塞がらない。日顕に聞く。
(二七)遺骨を安全に運搬したいのなら、紙やビニールの袋は避けるのが一般常識であろう。日顕はなぜ、例えば金属ないし陶器の箱等を使って遺骨を運搬するように指示しなかったのか。
(二八)それほど遺骨を「安全に運搬する」ことにこだわるのなら、なぜ納骨作業を中学生の小僧にやらせていたのか。
(二九)なぜ、使用済みの米袋を遺骨運搬に使ったのか。その行為は、遺骨を預けた遺族の心情を踏みにじることだと思わないのか。
(三〇)なぜ、カロートまで運び終えた時点で、すべての遺骨を袋から取り出しカロートの中に丁重に安置しなかったのか。
日顕は、当時の大石寺の最高責任者として、これらの質問のすべてに真剣に答える義務がある。
一、日顕は、十二月十三日付文書の中で「日蓮正宗の出家は寺院世襲の厳禁など、他宗他門に比しても特に厳しい定めがあり」(一〇五頁)云々と豪語している。このような欺瞞の言は、身内の宗門教師からも失笑を買うだけだろう。
現在の日蓮正宗では、実際には有力血族による寺院の世襲化が公然と行われている。端的な例を挙げると、早瀬日如は新法主になるまで、父・日慈の後を継いで法道院の主管を務めていた。