Soka Spirit

阿部日顕への公開質問状

松岡質問七〇項目中の一六から二〇

(一六)御本尊の「御火中」という、「法魂」を御本仏のもとに返す重要な儀式を、なぜ法主の日顕が自ら執り行わないのか――私がこう尋ねたことに対し、日顕らは「御法主上人が全ての法務を御一人でできるのなら、一般僧侶は不必要である」(同前)などと、まさしく「子供じみた」(同前)言い訳を返してきた。私は、返納御本尊の「御火中」を法主が「一人でできる」かどうか、を問題にしたのではない。そうではなく、法主の日顕が二十七年間、自らの手で一度も返納御本尊の「御火中」を行わず、「一般僧侶」の最下位にあたる所化小僧にそれをやらせていた、という呆れた実態を告発したのである。これこそ、御本尊軽賤の最たるものではないか。日顕に今一度問う。御本尊の法魂を御本仏に返す「御火中」の儀を、なぜ一度も自分自身で執行しなかったのか。また、法主を補佐すべき総本山の執事・塔中住職・山内教師らに、なぜ御本尊火中という最重要儀式の「代理」をさせなかったのか。なぜ所化小僧という半人前の修行者を、御本尊火中の大事に携わらせたのか。すべての質問に、真正面から答えよ。

一、右に述べた返納御本尊の取り扱いを見ればわかるように、日顕時代の大石寺では、各種法務に対する取り組みがじつにいい加減であった。もう一例、信徒に対する、日顕の許しがたい背信行為を弾劾しておこう。平成二年四月に行われた「全国宗務支院長会議」の質疑応答の場において、日顕は驚くべき問題発言をした。

岐阜県のある僧侶が末寺の印刷塔婆使用について質問した際、庶務部長の早瀬義寛(当時)は〝本山が印刷塔婆にしたのだから、末寺の塔婆も本山に準じていけばよいのではないか〟と答えた。この時、質疑応答を受ける形で日顕が口をはさみ、〝塔婆の申し込みが多くて、本山で書き切れない塔婆が十万本以上もたまってきた〟などと、大石寺で印刷の塔婆を使うようになった理由を説明し始めた。ところが続けて、日顕はあろうことか「今までの(十万本以上たまっていた)塔婆は、一本大きい塔婆を立ててご破算にした」との趣旨の発言を行ったのである。

つまり、日顕は、信徒から十万本以上に及ぶ塔婆建立の願い出を受けながら、それを約束どおりに実行せず、九尺の大塔婆を一本だけ立てて済ましたわけである。追善供養の真心を平然と踏みにじった日顕の怠慢・背信の大悪行は、永遠に許されるものではない。次の質問に、日顕は心して答えよ。

(一七)〝法主が一本立てれば十万本分の塔婆供養になる〟というのは、いかなる道理と御書の文証とに基づくのか。明確に示せ。示せないのなら、邪義によって信徒を欺いたのだから、速やかに公式謝罪を行え。また、このような虫のいい理屈が通るのなら、毎日、大石寺で大塔婆を一本だけ立て、末寺における塔婆供養は原則的に廃止すべきである。宗門はなぜ、そうしないのか。

日顕の「塔婆サギ」発言は、当時の宗務支院長らが直に聞いている。恐らくは、テープで会議の模様を録音した者もいるだろう。それ以外にも、日顕から「塔婆サギ」の指示を受けて実行に移した、当時の大石寺の内事部関係者や塔婆室の者たちがいる。変にウソの釈明を行うと、日顕は宗内の者たちから陰で嘲笑され、死後、法主除歴の動きにますます拍車がかかるであろう。

一、今回の公開質問状では、原則として教義面の質問は行わないことにした。しかし、日顕が退座直前に焦って出した十二月十三日付文書には、目に余る教義逸脱の表現が多々みられる。一点だけ追及しておきたい。「汝は〝究極の法体〟を〝戒壇本尊〟のみとしているが、法体相承が本門戒壇の大御本尊とともに本尊の体の相伝も含むことは……」との記述が、同文書(八〇頁)にはある。

さりげなく書かれてあるが、「本門戒壇の大御本尊とともに本尊の体の相伝」とは、まさに〈信仰対象が二つある〉という表現そのものではないか。もしくは、「本門戒壇の大御本尊」がそれ自体では「本尊の体」を持たない〈抜け殻〉であるかのごとき、大変な問題発言である。一体どういう意味か。日顕に質問する。

(一八)「本門戒壇の大御本尊」の中に「本尊の体」はあるのか、ないのか。

(一九)あるのならば、なぜ「本門戒壇の大御本尊とともに本尊の体の相伝」などと言い、「大御本尊」と「本尊の体」を区別する表現を用いたのか。

〝大御本尊と本尊の体は一体だから「とともに」という表現をしたのだ〟といった、稚拙な弁解はやめてもらいたい。なるほど、「ともに」という語には「ひとつになって」「いっしょに」(『広辞苑』)という意味がある。だが、「ひとつになる」という現象自体、元々二つのものがある、ということが前提になっている。つまり、日顕は常に、「大御本尊」と「本尊の体」とを切り離して考えたうえで、両者の一体不二を論じているのである。

そこには〝法主が「体」で戒壇の大御本尊は「用」〟とする、左京日教の説の受け売りの、異端的な法主信仰が隠蔽されている。「本門の本尊といっても唯授一人の血脈相承を所持なされる御法主上人を離れては利益成就はない」(平成十七年九月十二日付『松岡雄茂の「法主信仰の打破」なる邪論を破す』一八頁)という日顕の主張は、まさにそのことを証していよう。

けれども日顕の説く法主信仰など、誰から見ても矛盾だらけである。日顕は、次の質問にまともに答えられるか。

(二〇)「隠尊」となった日顕は、依然として「本尊の体」を所持しているのか。その場合、現法主の早瀬日如も「本尊の体」を所持しているはずだから、「本尊の体」が二つあることになる。言うまでもなく、「体」は一つである。今現在、日如と日顕のどちらに、真の「本尊の体」があるのか。