七〇項目中の一一から一五
(一一)念のため、「開眼の儀式は化儀であるから四悉檀の上より、時機に応じてどのようなあり方があっても不思議ではない」(十二月十三日付文書四五頁)などと逃げを打つことを想定し、「それならば、御本尊開眼の儀式における第一義悉檀とは何か」「また〝御本尊開眼の儀式は法主にしかできない〟という明確な日蓮大聖人の御文証を示せ」とも言っておく。もし日顕が、唯授一人の秘法たることを理由にして私に回答しなかった場合、当方は「道理を立てずして無理に唯即身即仏と云わば例の天魔の義なり」(『諸宗問答抄』)「経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよ」(『聖愚問答抄』)との大聖人のご教示に背くものとみなす。
自らの体験と合理的推測に基づく私の証言を「事実無根の妄言」「全てが虚偽」と非難する以上、日顕は右の質問のすべてに詳細に答えねばならない。御本尊開眼の大事である。勿体ぶって口をつぐむのは、かえって御本尊軽賤の大罪となることを心せられよ。
一、私は、「開眼」されたはずの御形木御本尊を大石寺内で大量に焼却している、という事実を指摘し、疑問点をいくつか日顕に質問した。今回、日顕はその一部について返答してきたが、私にとって納得できるものではなかった。そこで、再質問を行う。
日顕は「お役目を終えられた御形木御本尊」を「御火中」するのだ、と主張する。それに対し、私は「『お役目』を終えた本尊かどうかを、阿部はいかにして判定するのか」と問うた。日顕の答えは、「総本山に返納されたということが、お役目を終えられたことを意味している」(十二月十三日付文書五二頁)であった。ならば、聞きたい、
(一二)被授与者を救済する前に総本山に返納されてきた御本尊までも「お役目を終えられた」と判断するならば、御形木御本尊の「お役目」とは一体何なのか。明確に定義せよ。
(一三)宗開両祖の直筆御本尊をはじめ、歴代法主の常住御本尊は、総本山に納められたとしても、決して「お役目を終えられた」とはみなされない。むしろ、それらの御本尊は寺宝となり、山内大衆の信仰対象として長く格護される。御本仏の「法魂」を宿すという意味では、歴代法主の常住御本尊も返納の御形木御本尊も同じである。なのに、日顕はなぜ、返納の御形木御本尊に限って「お役目を終えられた」とし、その「御火中がもっとも適切な化儀」(同前)であるとさえ言い張るのか。御本仏の「法魂」を宿すとされる以上、返納の御形木御本尊も常住御本尊と同じく寺宝として丁重に格護されるべきであり、それこそが「もっとも適切な化儀」ではないのか。
(一四)日顕は、丑寅勤行における法主の祈念によって返納御本尊の法魂が「大聖人のもとに還御遊ばされる」と主張する。そして、この説を裏づける「文証」として「一身一念法界に遍し」との妙楽大師の文を出してきた。しかし日蓮大聖人は、この妙楽の文を根拠として、御本尊の「法魂帰還説」を説いてなどいない。私は、焼却中の御本尊の「法魂帰還説」を明らかに説いた「文証」の提示を求めたのである。私の質問をはぐらかし、逃げようとするのは卑怯である。そうではないか。
(一五)また、御本仏の「一身一念」を「法魂」と呼ぶのであれば、法魂はもとより宇宙法界に遍満しているのだから、改めて法魂を「還御」させる必要もない。日顕よ、どうなのか。さらに言えば、すべての人間、すべての存在は宇宙法界の一部であり、もとより御本仏の法魂に包まれている。よって、法主だけが法魂を専有するという理屈も成り立たない。日顕の法主信仰は、ここに崩壊する。それでもよいのか。