Soka Spirit

阿部日顕への公開質問状

七〇項目中の一から五

一、先に私は、日淳法主から日達法主への血脈相承の儀式を実例に挙げつつ、「『御相承箱』の外見を何らかの形で宗門僧侶に示せばよい」「相承箱の写真を撮り、公開するだけでもよい。なぜ阿部には、それができないのか」と問いただした。これに対し、日顕は平成十七年十二月十三日付文書の中で「明確に拒否する」(一三八頁)と回答を拒否した。これにより、日顕が相承箱を所持していないことは、ほぼ確定したと言ってよい。とすれば、去る十二月十二日未明の丑寅勤行の終了後に、総監の八木日照・大石寺理事の小川只道・仲居の小林道剛ら数名の警護の下、総本山客殿で極秘裏に行われた阿部日顕から早瀬日如への唯授一人血脈相承は、相承箱もない虚偽の儀式だった可能性が極めて高い。日顕に問う。

(一)相承箱を用いずに、大石寺の唯授一人血脈相承を行ってもよいのか。

(二)万一、相承箱を用いたとするならば、それは、今までどこにあったのか。また現在は、大石寺内のどこに格護されているのか。

(三)去る十二日未明に行われた〈相承〉の儀式においては、誰が相承箱を守護して〈相承〉の行われた客殿まで運んだのか。

一、今回、日顕は、邪義破折班の者に「日達上人と日顕上人の間には厳然と師弟の契約がおありになった」と明言させた(十二月十三日付文書六〇頁)。史実に照らせば、「師弟の契約」は相承の儀に先立って行われる。とすれば、日達法主と阿部信雄(当時)との間の「師弟の契約」は、昭和五十三年四月十五日の「内付」より前に行われて然るべきである。ならば聞く。

(四)阿部信雄が日達と「師弟の契約」を結んだのは、昭和五十三年四月十五日以前の何年何月何日の何時なのか。この点は、今後、『富士年表』を改訂する際に明らかにせねばならぬ問題であり、はっきりと答えるべきである。

また、昭和五十三年四月十五日以前に、日顕が日達法主と「師弟の契約」を結んだと言うのならば、昭和五十三年二月七日、東京・千代田区の帝国ホテルで河辺慈篤(当時、徳島県・敬台寺)と面談した折の、日顕の日達批判が問題となる。いわゆる「河辺メモ」によれば、この時の面談において日顕は、河辺に対し「G(=日達法主のこと)は話にならない」「今後の宗門の事ではGでは不可能だ」等と述べ、日達法主の宗務行政上の方針を激しく非難している。

(五)当時、すでに時の日達法主と「師弟の契約」を結んでいたであろう阿部信雄が、なぜ「師」と仰ぐべき日達法主を「話にならない」などと口汚く罵ったのか。