第六章:民衆の本尊証得における法主の介在の不要化
本稿の考察は、唯授一人の金口相承の中心的教義である三大秘法義が現代において理論的に公開されている、との認識に達したのであるが、ここに至っては大石寺門流の信仰実践のあり方も大きく変化せざるを得ない。
久遠名字の妙法の直達正観という成仏義を立てる大石寺門流では、法主や一部の高僧だけでなく、すべての信仰者に法体本尊の証得が可能であると説く。日寛は「当体義抄文段」の中で「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人」は「本尊を証得するなり」と述べ、その証得の相を人法に分けて「人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕るるなり」「法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」と説き示している(文段集683)。
しかしながら半面、一般の門下僧俗が本尊を証得するには法主の介在が必要であるとも考えられる。日寛は「報恩抄文段」に「縦い当流と雖も、無智の俗男俗女は三重の秘伝を知らず」「無智の男女は唯本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る」(文段集322)などと述べ、富士の相伝教学に暗い当時の一般的在家信徒の状況を問わず語りに語っている。この場合、「三重の秘伝」を知らない「無智の俗男俗女」が自らの判断で「唯本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る」ことは不可能であるから、三大秘法義を了解する法主や、その意を体した僧侶の信仰指導が必要となる。当時の宗門信徒の中には、金沢の福原式治等のごとく、折伏弘通に励みながら宗義研鑽にも極めて熱心な者が稀にいたが、それでも日寛から法門の曲解を間接的に指摘されていたという[xx]。いわんや信仰の対境となる曼荼羅本尊の書写やその是非の判定等に至っては、ひたすら金口相承の法主に頼るしかなかったと言えよう。すなわち大石寺門流では、すべての信仰者に本尊証得の道が開かれているとはいえ、実際には血脈付法の法主の介在が大前提となっていたのである。
ところが現代のように、金口相承の三大秘法義の理論的公開がなされる段階に至ると、事情はかなり違ってくる。現代の在家の人々は、日寛の頃のような相承法門に暗い「無智の俗男俗女」ではない。むしろ、日寛の六巻抄を座右に置いて日蓮の祖書を日夜朝暮に学習し、三大秘法の本尊を世界に流布せんと主体的に励む人々なのである。彼らは法主の教導がなくとも、門流秘伝の三大秘法義に基づく本尊証得の修行のあり方を知り、自ら実践できる。
そして帰命依止の対境たる曼荼羅本尊に関しても、法主の介在は実質的に不要化している。金口相承の三大秘法義を把握したうえで、日蓮と同じ信仰に生きる現代の門下僧俗は、文永・建治・弘安年間に顕示された、すべての日蓮の本尊を戒壇本尊の意義に通ずる本尊として拝することができる[xxi]。また歴代法主の本尊はすべて戒壇本尊の書写であり、戒壇本尊の「分身散体」としての意義を持つとされるが、現代の門下僧俗ならば、歴代書写の本尊のうちで誤った本尊を見極めることすらできるだろう。それを可能にしたのは、三大秘法義の理論的公開にともなう、本尊相承書の出版公開である。
少し古い事例となるが、六〇世の阿部日開は、昭和三(一九二八)年六月に唯授一人相承を受けた後、本尊書写の際に「仏滅度後二千二百三十余年」と書くべき本尊の讃文を誤って「仏滅度後二千二百二十余年」と書いてしまい、宗内の僧侶たちから問い質された末に「ただ漫然之を認ため何とも恐懼に堪へぬ」と謝罪させられたという。当時すでに出版公開されていた「御本尊七箇相承」には「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曾有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉ること御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」(要1-32)との条目がある。そうしたことから、相承なき平僧たちが血脈付法の法主の本尊誤写を責め糾して謝罪させる、という異例の事態へと発展したのである。平僧たちがかくも自信をもって法主の誤りを糾弾できたのは、彼らに大石寺の血脈相伝たる三大秘法義の知識があり、なおかつ「御本尊七箇相承」が出版公開されていたからである。昭和初期に起きた六〇世・阿部日開の本尊誤写事件は、本尊に関する権能を法主が独占できない時代の到来を示す、象徴的な事件であった。
さらにまた、われわれは、現代において法主による本尊書写の必要性が失われている、という点を決して見落としてはならない。大石寺門流の僧俗が寺院や家庭に安置している本尊は、通常は、戒壇本尊を書写した歴代法主の直筆本尊(常住本尊と呼ばれる)か、法主の直筆本尊を版木や写真印刷によって複写した本尊(形木本尊と呼ばれる)か、のどちらかである。このうち、複写の形木本尊は伝統的に仮本尊とみなされており、信心決定の後には、法主直筆で授与書きのある常住本尊に取り換えるのが慣わしとなっていた。しかしながら戦後、創価学会の大折伏により、累計で数百万体にも達する本尊下付が行われるようになると、すべての信心決定者に法主直筆の常住本尊を授与することは完全に不可能になった。そこで、漸く印刷の形木本尊を正本尊とする信仰形式への移行が進み、ついには六六世・日達の代に「特別御形木御本尊」の制定をみたのである[xxii]。特別形木本尊とは、写真印刷の形木本尊でありながら、実際には法主直筆の常住本尊と同格に扱われる曼荼羅本尊のことを言い、普通の写真印刷の形木本尊よりも一層荘厳さの増したものである。江戸期から存在する版木の形木本尊は、版木を使ったことが一目でわかるほど質が劣り、仮本尊とみなされても仕方ないところがあった。しかるに現代の写真印刷の形木本尊は、印刷技術の飛躍的進歩によって直筆かと見紛うばかりの鮮明度を持ち、表装の美観も格段に増している。それゆえ現在では、通常の形木本尊でも充分に荘厳であり、特別形木本尊になると直筆の常住本尊と何ら変わらぬ威厳を保っていると言ってもよい。しかも現代における写真印刷の原本は半永久的に保存が可能であり、今後、新たな特別形木本尊の原本を法主に依頼する必要もない。すでに戦前、堀日亨は「化儀抄註解」で「宗運漸次に開けて・異族に海外に妙法の唱へ盛なるに至らば・曼荼羅授与の事豈法主御一人の手に成ることを得んや、或は本条の如き事実を再現するに至らんか・或は形木を以て之を補はんか」(要1-113)と予測したが、その予測は百年を待たずして基本的に的中したのである。ここに、法主による本尊書写が不可欠とされた時代は終わりを告げたと言える。
それはまた、曼荼羅本尊の体相や筆法について教義的に理解できる法主の必要性が完全に消失したことをも意味していよう。もとより曼荼羅本尊の体相は、その教義解説の有無に関わらず、万人の眼に映じている。あえて言えば、本尊書写の際に宗開両祖や先師の本尊の体相を模写し、門流僧俗はその摸写本尊を宗門独自の三大秘法観に基づきつつ信仰する、というあり方でも信仰上は十分に事足りるのである。そこに加えて、現代では本尊書写それ自体が実質的に不要化し、唯授一人の本尊相承書とされてきた「御本尊七箇相承」等も出版公開されている。ゆえに今日、曼荼羅本尊の体相や筆法に関する教義を唯授一人で相承することの信仰上の意義は完全に消失した、と言わざるを得ないのである。
以上のごとく、現代の門下僧俗は法主の教導によらずとも、自ら正境たる三大秘法の本尊を見定め、久遠名字の妙法を唱えて直達正観の本尊証得を果たし、直筆本尊と同等の形木本尊を授与し流布しゆくことができる。換言すれば、民衆の本尊証得における法主の介在が不要化した段階が現代であり、唯授一人相承がその役目を終えた時期として、後世の人々に認識されていくであろう。
[xx] 前掲、『日寛上人伝』、六四〜六五頁。
[xxi]『日蓮正宗要義』(日蓮正宗宗務院、一九七八年、二〇一頁)には「万年の流通においては、一器の水を一器に移す如く、唯授一人の血脈相伝においてのみ本尊の深義が相伝されるのである。したがって文永・建治・弘安も、略式・広式の如何を問わず、時の法主上人の認可せられるところ、すべては根本の大御本尊の絶対妙義に通ずる即身成仏現当二世の本尊なのである」という記述がある。本稿の考察に基づけば、現代では「本尊の深義」の中核たる三大秘法義が理論的に公開されているので、この『日蓮正宗要義』の記述は「時の法主上人の認可せられるところ」を「われわれが金口相承の三大秘法義を信解するところ」に変更すべきであろう。
[xxii]「特別御形木御本尊」は、大石寺から創価学会に下付され、寺院ではなく学会の会館等で授与式が行われた。『聖教新聞』の報道に基づけば、初の特別形木本尊の授与式は、昭和五〇(一九七五)年一二月一四日、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で行われている。