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現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義

第五章:現代における三大秘法義の理論的公開

 今までの考察を通じ、唯授一人の金口相承が大石寺門流独自の三大秘法義を伝えるものとされてきたこと、この三大秘法義が二六世・日寛の手によって文底の事の一念三千論・三大秘法の法体論・日蓮本仏論・人法体一の本尊論として理論的に開示されたこと、さらには日寛の教学展開に前後して二四世・日永や二五世・日宥が〈日蓮=本尊〉や人法体一論を唱道するという動きがあったこと、などを確認できたように思われる。大石寺教学の復興運動が漸く実を結び始めた日永以降の時期に、金口相承の三大秘法義の理論的開示に必要な思想環境が整えられていき、最終的には日寛がその作業を完遂したと言えるであろう。

思うに、この見解は何ら新説ではなく、現代の大石寺宗門で暗黙の了解事項となっていることを明確化したものにすぎない。一例を挙げてみると、昭和五〇(一九七五)年に日蓮正宗宗務院の教学部から発刊された『日寛上人全伝』の中に「吾等は日寛上人によって日蓮日興の金口血脈の大法が、偉大なる教学体系として打ち立てられ、後世に遺したまわったことを、深く奉謝申しあげねばならないのである」との一文がみられる[xii]。ここには、日寛が「日蓮日興の金口血脈の大法」を「教学体系」として理論化した、との認識が示されている。日寛の教学的功績が金口相承の教義の理論的開示にあることは、現代の視点から大石寺教学史を概観するならば、誰でも容易に察知できよう。

ただ、ここで注意したいのは、日寛の時代には金口相承の三大秘法義の開示が完全になされたとは言い難い面もあった、ということである。それは、外的条件としての文献の開示性が十分でなかったという問題である。日寛は六巻抄や御書文段等において、富士門流に伝わる様々な相伝書を頻繁に引用しつつ門流独自の三大秘法義を論証していった。「百六箇抄」「本因妙抄」の両巻血脈をはじめ、日興の「上行所伝三大秘法口決」、三位日順の「本因妙口決」等々の相伝書なくしては、日寛の精微な主張も有力な文献的根拠を欠く我説となりかねない。しかるにこうした相伝書の全容は、日寛の時代には一部の学僧のみが知るところであった。つまり、およそ当時の大石寺門流の僧俗には、日寛の三大秘法論を文献的に検証することなど不可能だったのである。

加えて日寛は、当時、法主以外に見ることができなかった唯授一人相承の文献まで六巻抄に引用している。この唯授一人相承の文献とは、本尊相承書をいう。すなわち「取要抄文段」に「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)と、また日寛の講義を三〇世・日忠が筆録した「観心本尊抄聞記」に「本尊七箇、又本尊筆法等は一向に言わざる也。貫主一人の沙汰也」(研教12−589)と示唆された本尊相承書である。「本尊七箇の口伝」「筆法の大事」「本尊筆法」は、いずれも五九世の堀日亨編『富士宗学要集』第一巻に編入された「御本尊七箇相承」の内容を指していると考えられる。また「三重口決」とは、同じく要集の第一巻に収められた「本尊三度相伝」のことであろう。日寛は、今日でいう「御本尊七箇相承」や「本尊三度相伝」を唯授一人相承の重要な極秘文献とみなし、その開示を認めなかったのである。ところが他方で、六巻抄を読むと、日寛が「御本尊七箇相承」を度々引用しながら、種脱相対の一念三千や人法体一の本尊という最も深遠な法門を根拠づけていることに気づかされる。しかも、その際には必ず書名を隠し、「御相伝に云く」「当家深秘の御相伝に云く」などと記している。これでは「御本尊七箇相承」を披見しえた法主以外、当時の誰人も日寛の六巻抄を文献面から客観的に検証できなかっただろう。

さらに日寛以降の大石寺門流に関しては、六巻抄が長らく貫主直伝の秘書とされてきた、という問題もある。四八世・日量の日寛伝によると、日寛自身、六巻抄の再治をすべて終え、学頭の日詳(後の二八世)にそれを授与する際には「尤も秘蔵すべし」と指示したという(要5-355、356)。日寛が三大秘法義の理論的開示を余すことなく集大成したのが六巻抄であるから、その内容が特に他門の目に触れぬよう、厳重に秘匿されるべきは当然である。しかし門流の僧俗が容易にそれを披見できなかったとすれば、日寛により金口相承の三大秘法義が理論的に開示されたと言っても、極めて限定的な話となってしまう。

結局のところ、日寛が成し遂げた、金口相承の三大秘法義の理論的開示も、六巻抄や同抄に引用された相伝書の数々が公開されるまでは完結しないと言える。そこに今度は、近代における堀日亨の史料公開が大きな意味を持つゆえんが出てくるのである。

近代に入ると、明治四二(一九〇九)年に発刊された身延の祖山学院編『本尊論資料』の中に「御本尊七箇相承」が収録され、初めて出版公開された。続いて、堀慈琳(後の日亨)の協力を得て大正一四(一九二五)年に出版された『日蓮宗宗学全書』第二巻には「百六箇抄」「本因妙抄」が収録され、これまた初公開された。そして昭和期、堀日亨は自ら、大石寺門流の立場に配慮した相伝書の出版公開を手がけていく。昭和一一(一九三六)年一二月、日亨編『富士宗学要集 相伝信条部』が謄写印刷で発刊され、「御本尊七箇相承」「百六箇抄」「本因妙抄」等の富士門流の主要な相伝書がことごとく編録され、出版公開された。

また六巻抄に関しては、後世に書写が重ねられ次第に流伝していくとともに、明治三七(一九〇四)年に五六世・日応が註解した「三重秘伝抄」が東京の法道会から出版された。そうした状況を踏まえ、堀は大正一一(一九二二)年に出版された『日蓮正宗綱要』の中で「此(六巻抄のこと=筆者注)と本尊抄文段とは特に門外不出貫主直伝の秘書であったが、後世には何日となしに写伝して次第に公開せらるるに至ったのは、善か悪か全く時の流れであらう」と述べている[xiii]。そしてついに、掘の後援の下で大正一四(一九二五)年に刊行された『日蓮宗宗学全書』第四巻に六巻抄が収録され、全面的な出版公開の日を迎えたのである。この後、六巻抄は、昭和一三(一九三八)年に掘日亨自らが編纂した『富士宗学要集 宗義部之三』の中にも収められている[xiv]

同様に、日寛の御書文段も近代以降、徐々に公開の方向へと向かっていった。日亨の証言によると、明治三〇年代まで、日寛筆の諸々の御書文段の正本はないものと思われていた。だが彼は独自に調査を行い、大石寺宝蔵の棚の上でそれらを発見したという[xv]。この発見により、写本ではなく日寛直筆の御書文段の内容が初めて明らかになり、大正期から昭和にかけて、「門外不出貫主直伝」の「観心本尊抄文段」の全文と、日寛の主要な御書文段を堀が撮要したものとが、『日蓮宗宗学全書』第四巻や『富士宗学要集 疏釈部二』に収められ、一般に公開されたのである。

時代性や堀日亨の尽力により、富士門流の秘伝書が次々と活字化され、日寛の六巻抄及び御書文段等も出版公開されたことは、まさしく金口相承の三大秘法義の理論的開示に必要な外的条件が整ったことを意味していよう。とはいえ、日亨が戦前に発刊したガリ版の『富士宗学要集』は部数も限られ、ごく一部の僧俗が購入しただけで、広く世間に知れ渡るには程遠い状況であった。しかも当時の門下僧俗の中で、宗学要集を座右に置いて日寛教学を論ずる者など、極めて特殊な存在だったと言ってよい。『富士宗学要集』が名実ともに広く世間に流通し、富士の相伝書や日寛教学が一般大衆レベルにまで浸透するのは、何と言っても戦後、創価学会の出版活動や教学運動が本格化してからである。

日亨は戦後、創価学会の戸田城聖・第二代会長の後援を得て『富士宗学要集』の改訂増補に取り組み、昭和三二(一九五七)年の逝去までに八巻分を刊行、残りの二巻は日亨の一周忌を期して翌年に発刊された。また日亨は創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』の編纂にも携わり、その中に「百六箇抄」「本因妙抄」「御義口伝」「産湯相承事」などの富士門流の相伝書を加えて発刊した[xvi]。こうした結果、日寛の六巻抄や御書文段、門流秘伝の相伝書等は、初めて一般の在家信徒の目にも触れるようになった。ただし、日寛の御書文段に関しては戦後の『富士宗学要集』でも本尊抄文段を除いてその撮要が収録されるにとどまっていたが、昭和五五(一九八〇)年発刊の創価学会教学部編『日寛上人文段集』が種々の御書文段の全文を平易な書き下しで公開し、以後は一般会員の教学研鑽に資するものとなっている。

戸田会長は、戦後の学会再建の当初から教学振興に力を注ぎ、「一般講義」「一級講義」等の御書講義や教学試験を定期的に開催することで、会員幹部に徹底して日寛教学を研鑽させていった。とりわけ戦後間もない頃から、後に六五世の法主となる堀米日淳が学会本部に毎月のように出向き、昭和三一(一九五六)年一一月に終了するまで十年もの長きにわたって学会幹部への御書講義を続けた、という事実は注目に値する[xvii]。宗門の碩学で六巻抄に造詣が深かった日淳の講義を通じて、大石寺の金口相承の根幹的内容である三大秘法義は創価学会員の間に深く浸透していったに違いない。そのようにして、かつては大石寺の法主や一部の法門家だけが会得していた相伝教学の真髄が、幾百万もの在家の学会員によって日常的に学ばれるようになったのである。今日では、創価学会の布教活動の世界的拡大や情報技術の格段の発達にともない、日寛の六巻抄や日亨編『富士宗学要集』は世界各地で研鑽され、講述され、論議されるまでになっている。

 以上を要するに、時代性を反映した堀日亨の古文書校合・出版事業、戸田会長や堀米日淳が行った学会の会員幹部への教学的薫陶、そして創価学会の世界宗教化などにより、江戸時代の日寛が達成した金口相承の三大秘法義の理論的開示は民衆レベルにまで浸透し、それを根拠づける重要な相伝書の数々も広く公開される時代を迎えたのである。われわれは、現代こそ真に三大秘法義が理論的に開示された時代である、と言うべきであろう。

 最後に、この誰人も否定できない事実を証する一助として、日寛が「観心本尊抄文段」の中で列示した「重々の相伝」のすべてが今日、公開資料によって説明可能であることを確認しておきたい。本尊抄文段は、先述のごとく六巻抄と並んで貫主直伝の秘書とされ、享保六(一七二一)年の夏、前年に猊座を降りた日寛が学僧四十余人の熱心な懇請を容れて行った「観心本尊抄」講義の内容である。日寛はいつにも増して万全の用意で講義に臨み、満講の後には祝賀の儀まで設けられたという(要8-258)。かくも重視せられたゆえんは、「観心本尊抄」に明かされる「人即法の本尊」こそ「蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一末法下種の正体」である、と日寛が考えたからに他ならない。法主職を辞して再び学寮に入った日寛が、唯授一人相承の当事者の立場から「蓮祖出世の本懐」たる本尊の深義を理論的に開示した講義の内容が本尊抄文段なのである。してみれば、同文段の冒頭に列挙された「重々の相伝」は、すべて唯授一人の金口相承の本尊義にかかわる門流の秘伝とみて差し支えない。

故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり(文段集443〜444)。

金口相承の三大秘法義の理論的開示が完結した時代に生きるわれわれは、大石寺の血脈の承継者たらずとも、上記の「重々の相伝」の内容をすべて説明することができる。まず「三種九部の法華経」とは「撰時抄愚記」に「これ則ち広・略・要の中には要の法華経なり。文・義・意の中には意の法華経なり。種・熟・脱の中には下種の法華経なり」(文段集221)と示されるごとく、文義意の法華経・種熟脱の法華経・広略要の法華経を総称した言葉である。また創価学会の『仏教哲学大辞典』第三版には日寛の「三種九部法華経事」の内容の一部が引用され、広く公開されている[xviii]。次に、「二百廿九条の口伝」とは「御義口伝」(全集708〜803)のことをいい、「三大章疏七面七重口決」(全集870〜872)「台当両家廿四番の勝劣」(全集875〜876)「摩訶止観十重顕観の相伝」(全集872〜875)はいずれも「本因妙抄」の中にある。「四重の興廃」は、釈尊の教えを爾前経・法華経迹門・法華経本門・観心の四重に配立したもので『法華玄義』に説かれるが、ここでは文底の立場から、三大秘法の妙法の興隆によって寿量文上の本門が廃れるという意を含んでいる。「三重の口伝」は迹門・本門・文底の三重秘伝、「宗教の五箇」は教・機・時・国・教法流布の先後のこと、「宗旨の三箇」は三大秘法の本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目、「文上文底」は法華経の寿量品を本果妙から読めば文上・本因妙から読めば文底となることをいう。また多少順番は前後するが、「本地垂迹」「自行化他」「応仏昇進」「久遠元初」はいずれも本仏と迹仏の区別を示すための概念で、日寛の様々な著述の中で論じられている。例えば、「末法相応抄」には「問ふ久遠元初の自受用身と応仏昇進の自受用身とは其異如何、答ふ多の異有りと雖も今一二を説かん、一には謂く本地と垂迹、二には謂く自行と化他、三には謂く名字凡身と色相荘厳、四には謂く人法体一と人法勝劣、五には謂く下種の教主と脱益の化主云云」(要3-174)と示されている。さらに「形貌種脱」とは仏の形貌に約して種脱を論ずること、「判摂名字」は「名字に摂まると判ず」と読み、究竟即といっても名字即におさまるとの意である。「名同体異」は名が同じでも本体が異なる様を言い、日寛の「観心本尊抄文段」では、蔵・通・別・迹・本・文底の六種の釈尊が「名同体異の相伝」として示唆されている(文段集531)。反対に、「名異体同」は名を異にしても体が同じとの意で、例えば、釈尊と日蓮が名を異にしながら、ともに本因妙の教主としてその体を一にしていることをいう。「事理の三千」は「迹門理の一念三千」「本門事の一念三千」の区別から一重立ち入った法門、すなわち迹本の一念三千をともに理の一念三千として文底事行の一念三千を顕説する「本因妙抄」の文などを指すと考えられる。「観心教相」は、ここでは釈尊の仏法を教相、日蓮仏法を観心とする勝劣判を意味するのだろう。「本尊七箇口決・三重の相伝・筆法の大事」は、『富士宗学要集』第一巻の「御本尊七箇相承」(要1-31〜33)「本尊三度相伝」(要1-35〜42)の内容を指すものと思われる[xix]。「明星直見の伝受」は現在の「御本尊七箇相承」の中にあり、日蓮が日興に対し、自身が本尊の当体であることを明かした口伝相承とされている。最後の「甚深奥旨・宗門の淵底」は、具体的名目すら明かせぬ金口相承の秘義、という意味ではない。日寛は「文底秘沈抄」の中で、文底秘沈の三大秘法義をもって「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」の極理と規定している。日寛にあっては、「文底秘沈抄」に説かれた三大秘法義以上の「宗門の奥義」など存在しなかった。したがって、ここでいう「甚深奥旨・宗門の淵底」とは、その前に列挙された、三大秘法の本尊義にかかわる様々な教義概念を総括した表現なのである。

 さて、以上のような教義概念や文献に関する説明は、今日、創価学会が発行する『御書全集』『富士宗学要集』『六巻抄講義』『仏教哲学大辞典』等を参照すれば、誰にでも可能である。この事実は当たり前のようにみえて、まことに驚嘆すべきことではなかろうか。現代は、唯授一人どころか、万人が血脈承継の法主と同等の教義理解をなし得る時代なのである。この刮目すべき事態を到来せしめたものは、第一に日寛による三大秘法義の理論的開示、第二に堀日亨による富士門流の相伝書の出版公開、第三には戦後の創価学会による在家主体の日寛教学継承である。大石寺の唯授一人血脈相承は、日寛の時代から二百数十年を経てその中心的教義の理論的開示を完結し、もはや理論的公開の段階に入ったとさえ言えよう

[xii]『日寛上人伝』日蓮正宗宗務院教学部、一九七五年、五一頁。

[xiii] 堀慈琳『日蓮正宗綱要』雪山書房、一九二二年、六七〜六八頁。

[xiv]以上の記述のうち、大石寺関係の出版事情については『明治以降 宗内書籍雑誌総目録』(和党編集室、一九七一年)を参照した。

[xv]「堀上人に富士宗門史を聞く(一)」『大白蓮華』第六六号、一九五六年一一月、二一頁。

[xvi] 戦後の日亨が創価学会の支援を受け、『富士宗学要集』の再刊や『御書全集』の編纂刊行に取り組んだ頃の実際の状況を知るには、当時、日亨と寝食を共にしつつ研究助手を務めた渡辺慈済氏の証言(『日蓮正宗 落日の真因』第三文明社、二〇〇〇年、八二〜九〇頁)が参考になる。

[xvii]『年譜・牧口常三郎 戸田城聖』第三文明社、一九九三年、三七〇頁。

[xviii]『仏教哲学大辞典』創価学会、二〇〇〇年、五七三頁。

[xix] 日寛は「重々の相伝」の中で、現在の「御本尊七箇相承」の追加分三箇条の中にある「明星直見の伝受」を「本尊七箇の口決」とは別に列挙している。ここから、日寛は現在の「御本尊七箇相承」における本文七箇条と追加分三箇条とを切り離して考えていた、ということがわかる。また、そうだとすれば、追加分三箇条のうち「明星直見の伝受」以外の二箇条「一、仏滅度後と書くべし…」「一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべし…」についても、何らかの名称がつけられていなければならず、それが「筆法の大事」にあたると考えられる。なお身延山久遠寺版『本尊論史料』では「又本尊書写の事…」からが追補分とされているので、そこからが「筆法の大事」にあたるとの見方も成り立つ。さらに「三重の相伝」については、文脈上、本尊に関する三重の相伝という意であるから、該当する本尊相承書として現在の「本尊三度相伝」を挙げるのが至当である。昭和六〇(一九八五)年発行の創価学会教学部編『新版 仏教哲学大辞典』では「三重の相伝」が「本尊三度相伝」のことであると明記されているが、当時の宗門はこの仏哲の見解に特に異議を唱えていない。