第三章:日寛が金口相承の三大秘法義を理論的に開示した理由
さて、われわれが最初に理解しておきたいのは、宗門独自の三大秘法義が日寛以前の数百年間にわたって秘匿されてきた理由についてである。
相承の際に秘匿を指示されるから、と言えばそれまでだが、文献的にまず思い当たるのは、大石寺門流において重書とされる日蓮の「三大秘法禀承事」の末文に「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」(全集1023)とあることである。これによれば、日蓮自身が三大秘法の法門の秘匿を望んでいたことになる。三大秘法は日蓮による新義である。また大石寺門流では、日蓮を本仏にして人本尊と仰ぎ釈尊を迹仏とみる、という独特の立場から三大秘法を論じ、しかもその法体を大石寺の戒壇本尊に帰着せしめる。日本中世や近世の仏教界にあって、大石寺門流が掲げる三大秘法は、耳慣れない言葉であるのみならず、その釈尊観や本尊論、法体論がいかにも我田引水で奇想天外な印象を人々に与えたと思われる。日寛は「取要抄私記」の中で「若し御自身に、我を以て本尊とせよと遊ばされたらば、何れの人か之を信ずべけんや。此を以て文底に秘して、文の上を遊ばされたり。されば当家の習う法門はこれなり」(文段集799)と述べているが、こうした日蓮本尊論によるかぎり、日蓮の三大秘法義は著しく仏教的新奇性を持った説なのである。それゆえ大石寺門流は、日蓮も三大秘法義を厳重に秘匿したと信じたのであろう。
ならば、日寛はなぜ秘すべき宗門独自の三大秘法義を六巻抄等で詳細に論じ、結果的に大石寺の金口相承の中心的教義を理論的に開示していったのだろうか。彼が生きた時代には、徳川幕府の宗教政策によって自由な布教が制限されたかわりに、日蓮宗各派で教学研究が盛んとなった。そうした時代背景の下で日寛も、八品派と富士派が合同で作った千葉の細草檀林に入って長年研学に励み、同檀林の化主を務めた後には大石寺の学頭に招かれ、門流独自の立場から祖書の講義を行う中で大石寺二六世の法燈を継いでいる。日寛は、日蓮宗各派の教学振興の気運の中で自らも大石寺教学の確立を目指したといえ、そこから秘伝の三大秘法義を理論的に体系化する意図も必然的に生じてきたと言えよう。
だがそれ以外に筆者は、日寛自身の記述を通じ、彼が門流の秘伝をあえて開示せざるを得なくなった事情として、次の三点を指摘しておきたい。
第一に、日蓮宗各派が教学論議を盛んに行う中で、大石寺の相伝教学からみれば看過できない法義の乱れが広く伝播し横行するようになった、という事情がある。日寛が六巻抄等で批判的に取り上げた日蓮宗各派の論書の著者のうち、主たる者を挙げてみると、一致派では身延派の行学院日朝や一音院日暁、六条門流の円明院日澄、不受不施派の長遠院日遵や安国院日講、また勝劣派では八品派の常住院日忠、富士門流では京都要法寺の広蔵院日辰と実蔵院日賙、等々である。彼らは、日蓮入滅から四百数十年の間に現れた日蓮宗各派の論客であるが、いずれも日寛が活躍した頃の日蓮仏教界において、何らかの教学上の影響力をもっていたと考えられる。日寛は、こうした諸師の論が日蓮門下に流通している状況をみて、大石寺門流の相伝教学を護るためには理論的顕揚が必要である、と感じたのであろう。それゆえ金口相承の中心的教義である三大秘法義を理論化し、対外的論議に耐えうる門流教学を構築しようとしたのである。換言すれば、近世の日蓮仏教界にみられる宗派横断的な教学書の流通が日寛に唯授一人法門の理論化を促した、ということである。
第二に、日寛は、種脱相対判を説いた相伝書の文が他門に盗まれ引用されている、との危惧を抱いていた。このことも、日寛をして三大秘法義の理論的開示を実行せしめた一つの背景的事情と考えられよう。日寛の「三重秘伝抄」では、「種脱相対の一念三千」に関して「此即蓮祖出世の本懐、当流深秘の相伝なり焉ぞ筆頭に顕すことを得んや」と述べられた後、「然りと雖も近代他門の章記に竊かに之を引用す、故に遂に之を秘すること能はず今亦之れを引く」として、「本因妙抄」から「問て云く寿量品の文底一大事と云ふ秘法如何、答て曰く唯密の正法なり秘すべし秘すべし一代応仏の域を引へたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文底とは久遠実成名字の妙法を余行に渡さず直達正観する事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」との文が引用されている(要3-50)。「百六箇抄」と合わせて両巻血脈とも言われる「本因妙抄」は、日興門流の重要な相伝書であり、大石寺五世・日時の写本があるほか、日尊写本によるとする要法寺の広蔵院日辰の写本、保田の妙本寺日我の写本がある。古来より興門流の秘書とされてきたが、日寛の時代には「近代他門の章記に竊かに之を引用す」という状況が生じた。五九世・堀日亨の注釈によると、この「近代他門等」とは「八品門家等」を指すとされる(同前)。日寛は、興門流の秘書たるべき「本因妙抄」の他門への流出に危機感を感じ、「遂に之を秘すること能はず」との思いから先の「本因妙抄」の文を引用しつつ、大石寺の相承法門を構成する「種脱相対の一念三千」を説明したのである。日寛による相伝書を用いた三大秘法義の理論的開示は、こうした事情からも促進されたわけである。
さて第三に、先に列挙した日蓮宗各派の学僧たちの中で、特に要法寺日辰の教学が近世初期の大石寺門流に多大な影響を与え、一時は大石寺門流の相伝教学が覆い隠される事態になった、という問題もある。背景には、一四世・日主の代に大石寺が要法寺との通用を始め、一五世・日昌から二三世・日啓まで、じつに九代にわたる大石寺法主の任を要法寺出身の僧が務めたという事情がある。この間、一七世の日精が日辰さながらの釈迦仏造立・法華経一経読誦を主張し[vii]、大石寺門流の化儀化法から大きく逸脱したことは有名であるが、二二世の日俊の代からは門流正統の本尊義の復興がはかられ、二四代の日永に至ってその効が顕れたと言われる(要8-256)。しかし日俊らが要法寺の異流義を排除したと言っても、法義の上から完全な決着をつけたわけではない。日俊は、末寺の造仏撤廃を進めたとされるが、他方で北山本門寺から自讃毀他で訴えられた際に奉行所向けに書いた証文の中では「京都要法寺造仏読誦仕り候へども大石寺より堕獄と申さず候証拠に当住まで九代の住持要法寺より罷り越し候」(要9-33)などと述べ、恐らくは当局の弾圧を回避するために、要法寺流の造仏・一経読誦を自ら進んで容認する姿勢を示している。そうしたことが、法義の上で日辰教学とけじめをつけないまま行われたのであるから、当時の大石寺門流が要法寺の弊風を一掃していたとは言い難いだろう。ただ、日寛の存命中か死後かは定かでないが、二五世の日宥が、日辰の総体・別体の本尊論について「此の義は煩はし」「辰抄の人法本尊と云ふ揔じて文底深秘の種本脱迹を弁ぜず」(「本尊抄記」、歴全3-381、382)などと批判したことはあった。だがそれとて、日辰の本尊論や修行論の全体に及ぶ本格的な批判ではなかった。かくのごとき諸事情を考慮するならば、日寛が日辰を舌鋒鋭く攻撃した底意には、要法寺教学と訣別し、大石寺教学の優位性を立証する狙いがあったとみるべきである。
春雨昏々として山院寂々たり、客有り談著述に及ぶ、客曰く永禄の初洛陽の辰造読論を述べ専ら当流を難ず爾来百有六十年なり、而る後門葉の学者四に蔓り其間一人も之に酬ひざるは何ぞや(要3-138)。
これは、日寛の「末法相応抄」の序文である。日辰の造仏・一経読誦論は一時的にせよ、大石寺の化儀化法を少なからず攪乱したのであり、日寛はそれに対する門流内からの反論が出ないことを問題視したものと考えられる[viii]。興門の日尊の流れを汲む日辰は、大石寺と同じく文底種脱の法門を立てる。とはいえ、種脱の法体は同じで衆生の機根に応じて利益の違いがある、とする種脱一体・本同益異論を説いて造仏を勧め、種脱相対判や日蓮本仏義を批判している。後に、日辰の造仏論に影響された大石寺一七世の日精は、「随宜論」に「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり」と述べるなどして、造仏こそ日蓮の本意なり、と主張し、大石寺伝統の戒壇本尊中心主義を迷乱させた。要法寺教学は、まさに大石寺教学と似て非なるものであり、それだけに日寛としては、富士門流に伝わる文底種脱の法門を、改めて大石寺の相承法門の立場から顕説する必要に迫られたのだろう。それは取りも直さず、金口相承の秘義の理論的開示とならざるを得ない道のりであった。
以上、日寛が金口相承の三大秘法義を理論的に開示した理由として、日蓮門下全般の教学興隆、興門流の秘書の対外流出、当時の大石寺門流に残る要法寺教学の痕跡、という三点を指摘した次第である。
[vii] 現宗門は、日精が「日蓮聖人年譜」の中で日辰の本尊論を破折した、との立場をとるが、これはかなり強引な史料の誤読である。詳細は稿を改めて論じたいが、同年譜における日精は、「法華経を以て本尊と為す」べきだ、として法本尊の義に偏する「或抄」に対し、惣体の本尊を大曼荼羅、別体の本尊を人(久成の釈尊)と法(事行の南無妙法蓮華経)に分かつ日辰の義をもって反駁している(要5-118)。しかしながら、日辰の本尊義では、大石寺門流が正義とする人法体一の法本尊の意義が鮮明にならない。ゆえに堀日亨は、日精が主張した日辰そのままの本尊論の箇所に、「総別は法の本尊の立て方に付て本師未だ富士の正義に達せざるなり」(同前)との頭注を付している。また「久成の釈尊」を人本尊とする日辰の義の採用は、日蓮本仏論の否定にも通ずる。よってそこにも、「此下辰師の造釈迦仏の悪義露見せり迷ふべからず」(同前)との日亨の頭注がみられるのである。
[viii] 当該引用文の後には、「予」の答えとして「吾に於いて害無きが故に酬いざるか」ともあるが、それは、日辰教学の影響を受けた日寛以前の宗門先師に対する、弟子分としての配慮表現であったと思われる。というのも、日寛は「当家法則文抜書等」の中で、日精が日辰流の本尊論や修行論を展開している箇所を抜書し、そこに「精師且く他解を述ぶ。是れ則ち日辰の義なり。故に本意に非ざるなり云云」「是れ又他解なり。正義に非ざるなり」(研教9-757、763)といった婉曲的批判を付記しているからである。この付記は、少なくとも日精が日辰の「他解」を他解として明示しなかったことに対する、日寛の否定的感情を表しており、日寛が大石寺門流における日辰教学の弊害を憂慮していた、という一つの証左となる。