Soka Spirit

断簡19 魂

安維持法違反、不敬罪で投獄されたまま亡くなった牧口初代会長

昭和二十年三月十日(陸軍記念日)午前零時八分。東京湾上を超低空で這うように飛んできた〝空の要塞〟B29の編隊が、東京・江東の海に接する東雲地区に一発目の爆弾を投下した。編隊は計画どおりに展開し、東京の下町から山の手に対し、雨あられのように焼夷弾を落とした。その量一千七百トン。三百二十五機もの編隊がすべてを非情の世界に追いやった。生きとし生けるものの息づきを極限の苦しみの中で奪うことを、戦争というものは正当化するのである。そこには勝者も敗者もない。

紅蓮の炎の中を逃げる人、肉親を探す人、火災は人々を炎の中に閉じ込め、喘ぐことすら許さぬまま生命を奪った。この日だけで東京市民八万三千七百九十三名が死亡。その多くが焼死である。

のち創価学会第二代会長となる、戸田城外・創価教育学会理事長はこの時、東京・巣鴨の東京拘置所第二舎の独房にいて、地響きのような音を聞き、それとともにガラスに写る夜空の、闇をあざむくかのような朱を見ていた。

独居房は先ほどまでまったく静まりかえっていた。ところが、静けさを破る遠雷とも思える音とともに、鉄格子のはまった窓の擦りガラスが、徐々に赤く染まってきた。獄中の戸田理事長は、窓に足を向け頭をドアに向け、三畳間の独居房の中に寝ていたが、今は身体を起こし、外の異変に耳を澄まし、目を凝らしていた。

前々年の昭和十八年六月末、牧口常三郎・創価教育学会会長とともに、総本山大石寺において、

「『神札』を一応はうけるように会員に命ずるようにしてはどうか」(『戸田城聖全集』第一巻所収「創価学会の歴史と確信」より一部抜粋)

との、日蓮正宗〝法主〟鈴木日恭による〝指南〟を峻拒してより、二年が経とうとしていた。その時、牧口常三郎会長は、神札甘受の〝指南〟に従わず、逆に宗門に対し国家諌暁を主張した。しかし容れられなかった。

「一宗がほろびることではない、一国がほろびることを、なげくのである」(同)

国といえども、「囗」がまえに「民」。日蓮大聖人が「立正安国論」に使われているfである。民が兵奴と化し、民が兵火に焼かれ、民が塗炭の苦しみに喘ぐことを牧口会長は避けたかったのだ。日蓮大聖人の「立正安国論」のままに。

昭和十八年七月六日、牧口常三郎会長、戸田城外理事長は、治安維持法違反、不敬罪で逮捕された。のち、牧口会長は昭和十九年十一月十八日、満七十三歳をもって、東京拘置所獄内において殉教した。牧口会長は前夜、身なりを整え、第四舎の独居房より、自ら歩いて病監に移った。途中、足がもつれて房舎の廊下に倒れ、獄吏が手を差し伸べたが、牧口会長は獄吏に助けられることを 潔しとせず、自力で立ち病監まで歩いたという。

十八日未明、牧口会長は逝った。

獄舎の冬はあまりにも過酷なものであった。戸田理事長は、飢えと寒さの極限の中で、ただ唱題に励んでいた。

「一月十日ニ非常ナ霊感ニ打タレ、ソレカラ非常ニ丈夫ニナリ肥リ、暖カクナリ、心身ノ『タンレン』ニナリマシタ。立派ナ身体ト心トヲ持ッテ帰リマス」(昭和十九年二月八日付の夫人宛書簡、『若き日の手記・獄中記』より一部抜粋)

戸田理事長は、法華経の開経である無量義経の〝三十四非〟の偈より、仏とは生命であることを覚知したのである。

さらに牧口会長が亡くなった十一月頃、戸田理事長は大悟を得た。

「ちょうど、牧口先生のなくなったころ、私は二百万べんの題目も近くなって、不可思議の境涯を、ご本仏の慈悲によって体得したのであった」(『戸田城聖全集』第一巻所収「創価学会の歴史と確信」より一部抜粋)。

戸田第二代会長の獄中の悟達

この十一月の悟達については、昭和三十二年六月に戸田会長が妙悟空のペンネームで著した『人間革命』に、きわめて如実に描かれている。なお、文中の「巌さん」とは、戸田会長自身のことである。

「『南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……』

 十一月中旬の、水のように空が晴れている……ある朝のこと、巌さんの題目を唱えている声が独房から洩れていた。

 もしも、鉄の扉の前に立って、朝々、声に聴き入る人があったら、彼の唱題している声から挑みかかるような烈しさが消えて、静かに澄んできているのに気が付いたであろう。

 日夜、苦悶をつづけて、今は疲労のドン底にいるのだが、法華経と取り組んで熱烈に思索し、深く瞑想し、苦悶をつづけることによって、心の濁りや身体の錆が落ちてきたとはいえないであろうか。

『南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……』

 東の空へ昇った太陽が独房の窓へ射し込んで、牛乳壜の丸い蓋で拵えた数珠を手にしている巌さんの額や鼻の辺を琥珀色に染めており、時々陽射しを跳ねて眼鏡が光っている。

 今年になって数えはじめたお題目は、百八十万遍を越えている。

 毎朝と同じように、今朝も、彼は大石寺の御本尊を心に念じながらお題目を唱えているが、数が進むにつれて、春に降る雪を見るよう、しんしんと心が落ち着いてきて、清々しく、ほのぼのとした楽しさが湧いてきている。

『南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……』

 巌さんの心は、今、春の野を吹く微風のように軽く柔かくて譬えようもなく平和であった。

 夢でもない、現でもない、……時間にして、数秒であったか、数分であったか、それとも数時間であったか……計りようがなかったが、彼は、数限りない大衆と一緒に虚空にあって、金色燦爛たる大御本尊に向って合掌している自分を発見した。

 そして、法華経二十八品の内の従地涌出品にある……是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて、下より発来せり。一一の菩薩皆是れ大衆唱導の首なり。各六万恒河沙等の眷属を将いたり。況や五万、四万、三万、二万、一万恒河沙の眷属を将いたる者をや。況や復、乃至一恒河沙、半恒河沙、四分の一、乃至千万億那由佗分の一なるをや。況や復、千万億那由佗の眷属なるをや。況や復、一千、一百、乃至一十なるをや。況や復、五、四、三、二、一の弟子を将いたる者をや。況んや復、単己にして遠離の行を楽えるをや。是の如き等比、無量無辺にして、算数譬喩も知ること能わざる所なり。是の諸の菩薩、地より出で已つて、各虚空の七宝の妙塔の多宝如来、釈迦牟尼仏の所に詣ず。致り已つて、二世尊に向いたてまつる……彼は経文通りの世界にいることを意識している。

 巌さんはこの大衆の中の一人であって、永遠の昔の法華経の会座に連らなっているのであり、大聖人が三大秘法抄で仰せられている……この三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり……というお言葉が、彼の胸へ彫込まれてでもいたように、この時、ありありと浮き出してきた。

 これは、嘘ではない! 自分は、今、ここにいるんだ! 彼は叫ぼうとした時、独房の椅子の上に坐っており、朝日は清らかに輝いていた。

 巌さんは一瞬茫然となったが、歓喜の波がひたひたと寄せてきて、全身は揉まれ、痺れるような悦びが胸へ衝上げてきて、両眼から涙が溢れだし、袂を探ってハンカチを取り出して、眼鏡を外して押えても、堰を切ったように涙が湧いて止め度がなく、彼は逞しい肩を顫わせて泣きつづけた。

 しばらくして巌さんは椅子を立って題目を高々と唱えだした。

『南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……』

 題目を唱え終った刹那、彼の胸の内に叫び声が起った。 (おお! おれは地涌の菩薩ぞ! 日蓮大聖人が口決相承を受けられた場所に、光栄にも立ち会ったのだぞ!)

 巌さんは眼鏡の底の眼を大きく瞠き、歓喜に戦く胸を抱締めて独房の中を歩き廻っていたが、やがて机へ帰って、法華経を開き、従地涌出品を読みなおし、寿量品を読み、嘱累品を読みなおした。 (ほう!)

 彼は眼鏡の内で幾度となく瞬いたが、今、眼の前に見る法華経は、昨日まで汗を絞っても解けなかった難解の法華経なのに、手の内の玉を見るように易々と読め、的確に意味が汲み取れる。

 それは遠い昔に教った法華経が憶い出されてきた感じ……不思議さを覚えながらも感謝の想いで胸がいっぱいになった。 (よし! ぼくの一生は決った! この尊い法華経を流布して、生涯を終るのだ!)

 支那の聖人孔子は四十にして惑わず、五十にして天命を知るといったとか、彼はうん! とうなって立ち上った。そして部屋の中を行きつ戻りつしつゝ叫んだのであった。

『彼に遅るる事五年にして惑わず、彼に先立つこと五年にして天命を知る』

 時に彼の年は四十五歳であった」(妙悟空著『人間革命』より一部抜粋)。

戸田第二代会長の出獄

昭和二十年、飢えと寒さと死と隣り合わせの冬を乗り切り、ようやく春が鉄格子のすぐそこまできていた。そのかすかな安堵の思いを引き裂くかのように、三月十日未明より米軍のB29による大空襲が東京の人と家並みを焼き尽くした。

だが、戦時下において、敗戦を身近に感じながらも、人々は必死の思いで、首都・東京の復興に励んだ。大空襲の翌十一日の朝までには、止まっていた御徒町—新橋間が復旧。これによって山手線は全線開通する。

だが、獄中の戸田会長は死線をさまよっていた。

「一 空襲のことで、日夜心配しどおしております。商事も秀英社も四海書房も六芸社も、全部なくなったと思います。どうか面会に来て下さい。私がいなくてはどうにもなりますまいが、せめて『生活』の相談でもうけたいと思います。

 二 毎度ですみませぬが、お金を百円調達して両全会へ二十円、私のところへは八十円差し入れて下さい。

 三 急に衰弱が加わってまいりました。滋養剤が手に入りませんか。牧口先生のところが恋しい様な気持ちに襲われがちです。せめて『差し入れ弁当』と、当所の滋養剤を購入したいと思います。元気になるか知らんと思ってどうか、両全会と差し入れ金いそいで下さい。

 四 お金の不自由は、大変困ります。

 五 少しの人情にも涙もろくなりました。

 六 週刊朝日、毎日なりとせめて入りませぬか」(三月二十三日、夫人の父に宛てた手紙、『若き日の手記・獄中記』より一部抜粋)

同年七月三日夕、戸田創価学会第二代会長は釈放となった。戸田会長はその一週間ほど前、巣鴨の東京拘置所より中野の豊多摩刑務所に移送されていた。釈放された戸田会長は、省電(現JR)・中野駅までおよそ千百メートルの道のりの中ほどで、ひと休みした。それまでおよそ二年間、外界を歩いたことのない身躯にとって、その道のりは遠く長く感じられた。

戸田会長は中野駅から目黒駅まで省電に乗った。

目黒駅を出て、自らが経営していた学習塾・時習学館の焼け跡へ。そこで一刻を過ごし、白金台の自宅へ。二年ぶりの夏がそこにあった。

戸田会長の胸に去来したものは……。

出獄直後、戸田会長は妹の夫宛てに心情を吐露している。書簡の冒頭は次のように始まる。

「城聖は(城外改め)三日の夜拘置所を出所しました。思えば、三年以来、恩師牧口先生のお伴をして、法華経の難に連らなり、独房に修行すること、言語に絶する苦労を経てまいりました。おかげをもちまして、身『法華経を読む』という境涯を体験し、仏教典の深奥をさぐり遂に仏を見、法を知り、現代科学と日蓮聖者の発見せる法の奥義とが相一致し、日本を救い、東洋を救う一大秘策を体得いたしました」(『若き日の手記・獄中記』より一部抜粋)。

師弟不二は創価学会の魂

さらに、戸田会長は書簡の中で、獄中において悟った師弟の関係について記している。

「私のこのたびの法華経の難は、法華経の中のつぎのことばで説明します。

在々諸仏土 常与師倶生

と申しまして、師匠と弟子とは、代々必ず、法華経の供力によりまして、同じ時に同じに生まれ、ともに法華経の研究をするという、何十億万年前からの規定を実行しただけでございます。

私と牧口常三郎先生とは、この代きりの師匠弟子ではなくて、私の師匠の時には牧口先生が弟子になり、先生が師匠の時には私が弟子になりして過去も将来も離れない仲なのです」(同)

戸田会長はこの師弟不二の思いをもって、創価教育学会すなわち創価学会の再建に挑むのである。この師弟の思いは不変であった。戸田会長は昭和二十一年十一月十七日、東京・神田の教育会館でおこなわれた牧口初代会長の三回忌法要において、以下のように話している。

「あなたの慈悲の広大無辺は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました。そのおかげで、『在在諸仏土・常与師倶生』と、妙法蓮華経の一句を身をもって読み、その功徳で、地涌の菩薩の本事を知り、法華経の意味をかすかながらも身読することができました。なんたるしあわせでございましょうか。

創価教育学会の盛んなりしころ、わたくしはあなたの後継者たることをいとい、さきに寺坂陽三君を推し、のちに神尾武雄君を推して、あなたの学説の後継者たらしめんとし、野島辰次氏を副理事長として学会を総括せしめ、わたくしはその列外に出ようとした不肖の弟子でございます。お許しくださいませ。しかし、この不肖の子、不肖の弟子も、二か年間の牢獄生活に、御仏を拝したてまつりては、この愚鈍の身も、広宣流布のために、一生涯を捨てるの決心をいたしました。ごらんくださいませ。不才愚鈍の身ではありますが、あなたの志を継いで、学会の使命をまっとうし、霊鷲山会にてお目にかかるの日には、かならずやおほめにあずかる決心でございます」(『戸田城聖全集』第三巻より一部抜粋)

創価学会の不滅の価値が、この文中に生きている。これこそ創価学会初代、二代、三代会長を貫く魂である。

師弟不二。これほど人間的で、これほど崇高な価値はない。創価学会の戦後の大発展は、牧口会長の殉教を想う戸田会長の胸中に、そのすべてを発している。凡夫の一身に不滅の使命を与えたのは、末法の御本仏・日蓮大聖人である。七百年前の救民同苦の慈悲に、創価学会の根源はある。その流れは、歴史の変転を超え、永久に流れる。能忍の人・池田大作創価学会名誉会長ありて、創価学会の魂は不変不朽。正義の旗の下に人々は集う。まさに「地涌の菩薩」たらんか。