「日達上人のニオイのするものは、みなイヤだ」
最後の力をふりしぼって相承をしようと細井日達管長が、対面所に床を敷くことまで命じ、娘婿の東京国立・大宣寺の菅野慈雲と御仲居・光久諦顕を呼ぼうとしたのは、七月二十三日である。しかし、細井管長が対面所に戻ることはなかった。
もともと阿部信雄の日号は、得度した時に「日慈」と決まっていた。しかし、皮肉なことに法道院の早瀬がすでに「日慈」を名乗っていた。日顕は師僧から出家得度のときにつけられた「日慈」を名乗るわけにもいかず、自ら「日顕」と名乗った。父が「日開」であることから「開顕」をもじったわけである。
日蓮正宗宗規には、次のように書かれている。
「第十四条 法主は、宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し、本尊を書写し、日号、上人号、院号、阿闍梨号を授与する」
日顕が〝法主〟だけの権能である日号を最初に授与したのは、皮肉なことに自分自身だったのである。
細井管長は二十年、在位したが、この間、大坊で寝起きしていた。細井管長亡き後、娘婿の菅野を中心にして細井管長の私物が片づけられた。この中から特異なものが出てきた。関快道の手紙である。何十通も出てきた関の手紙は、
「猊下をお慕い申し上げております」
といったふうの、まるでラブレターだったという。関は東京・狛江の仏寿寺住職だった平成二年、日顕のもとで「C作戦」を起案する際、中心的役割を果たすが、そこまで日顕に取り入るには相当な数の「ラブレター」を書いたと思われる。関は東大法学部を卒業しているが、失恋が動機で出家した。その鬱憤がこのようなところに出たのだろうか。
日顕は大坊に移るにあたって言った。
「日達上人のニオイのするものは、みなイヤだ」
このような〝お言葉〟もあり、「日達上人のニオイのする」私物一切が急遽、片づけられることになったのだ。細井管長の遺族らは故人を偲ぶよすがもなく、新たに登座した権威の象徴に追い立てられるようにして、片づけをしなければならなかった。哀れだったのは、細井管長がかわいがっていた生き物たちである。細井管長が世をはばかって飼っていた天然記念物のタンチョウヅル、わざわざ小屋を造って飼っていた多くの鳥たち、大坊で細井管長のお供をしていた犬たちなどなどが、〝お目通り適わぬ身〟となり大坊から追い出されることとなった。日顕は菅野に言った。
「早く、どこでもいいから、持っていけ」
日顕は、
「日達上人のニオイのするものは、みなイヤだ」
と言ったが、生き物や調度品を持ち出してニオイが消えるわけでもなく、日顕はまもなく、細井管長が住んでいた大奥の庫裡部分そのものを破壊してしまう。新しく作ったのは、日顕好みの京なめりの和風の建物。贅の限りを尽くしたものであった。この大坊の「ニオイ」消しが完了するのは、登座九年二カ月後の昭和六十三年十月、六壺の新築をもってであった。六壺は在勤の学衆が勤行をする場で、大石寺発祥の由緒ある施設である。しかも、細井管長時代に造られた六壺は日本を代表する和風建築として、日本建築学会で大変に高く評価されたものだった。無論、充分使用に耐え、壊す理由などどこにもなかった。日顕は六壺と前後して大化城を取り潰すとともに、大講堂のそばにあり、園遊会などに使っていた「流れの庭」も壊した。これらの経過からしても、日顕が細井管長から「血脈相承」を受けたと見る者は、まずいないだろう。日顕は、「日達上人のニオイのするもの」すべてを壊し、自らが新築していった。
平成七年十月 大客殿の取り壊しにかかる。
平成十年三月 自分好みの客殿を竣工。(ただし、「客」すなわち信者用のトイレはない)
平成十年六月 正本堂の取り壊しにかかる。
平成十四年十月 奉安堂竣工。(これも信者用のトイレなし)
こうして日顕は、総本山大石寺における細井管長の業績を無に帰し、すべてを自らの業績として塗り替えた。
一時は日顕の相承を否定した山崎
さて、話は戻るが、日顕の登座後、山崎正友は早くも日顕の取込みにかかる。この工作は一時は成功し、山崎も気をよくして、細井管長に出したような密書「申し上げるべきこと(一)」「申し上げるべきこと(二)」を作成する。この文の中には、次のような一節がある。
「がバランスをとることが、若手や檀徒を暴走させない方法である」(筆者註「」とは猊下、すなわち日顕のこと)
「このまゝいくと、一年半で、檀徒は、十五万〜二十万になる。そこで本当に学会がコントロールできる力をがもたれる。そこで、真の解決をされるべきである」
「墓地は、戦略的な二〇三高地であり、ぜひすゝめさせていただきたい」
しかし、墓地の利権をあからさまに狙ったこの企みは頓挫する。九月二十五日、山崎は日顕より大石寺において、
「あんたは大ウソつきだ。あんたを絶対、信用しない」
「こちらからいいと言うまで、本山に来ることはまかりならぬ」
と怒鳴られる。この日の夕方、山崎は浜中に電話を入れている。
「あの野郎が猊下なものか。和道さんも知ってるでしょう。日達上人が亡くなる前には、あいつには相承する気がなかったってことは」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
「あの野郎は、俺がそのことを知らないと思って、法主面しやがって、今に見てろって言うんだ……」(同)
「あの野郎のきのう言ったことを絶対に死ぬまで忘れないよ。あの野郎を必ずブチ殺してやるよ。絶対に仕返しするよ。今に見ていろってんだ」(同)
山崎の小細工が破綻をきたしたと見ることもできるが、この時、日顕からしてみれば山崎もまた、
「日達上人のニオイのするもの」
にほかならなかった。まして、山崎が煽り統率している反学会活動家僧らのほとんどは、日顕の嫌いな創価学会出身者の一代坊主たちである。その山崎から「作戦」を「申し上げ」られた驕慢〝法主〟が頭にきたのは無理からぬことで、山崎は代々〝法主〟の自尊心を読み違えたのである。細井管長の心を手中にするまでには、それだけの手順を踏んできたはずである。すなわち、ありもしない創価学会情報をたれ込むことによって恩を着せてきた長い時間の経過のもとに、細井管長は山崎の掌中の〝玉〟となった。その手順を踏まず、また時間をかけることもなく山崎は、いきなり軍師然として〝玉〟を掌中にしようとしたのである。血脈なきニセ法主が虚勢を張っているときに、そのような挙に出ては元も子もない。山崎は日顕から、
「あんたは大ウソつきだ」
と言われ、本山から放逐されることになる。この時、〝血脈相承〟の問題につき、日蓮正宗内で表立ってその不審を述べる者はいなかった。〝血脈〟の断絶は出家らにとって共通の不利益である。〝血脈〟の断絶は日蓮正宗の存在基盤を失うに等しい。誰もが決して触れることのできないことだった。〝法主〟を公然と自称した日顕はそれを知り抜いていた。知り抜いていたがゆえに自称したのだ。法灯連綿たる〝血脈相承〟は日蓮正宗の金看板であった。この禁忌なくしては、出家は食い上げと考えられていた。日顕が〝法主〟であろうことは、実不実にかかわらず誰しもが黙認するしかなかったのだ。ゆえに、日顕にとって山崎はこの時点で、さして利用価値のない者に見えたのである。
山崎は日顕が相承を受けていないことについて、明くる昭和五十五年十一月二十日号の『週刊文春』に、
「二つの疑惑=日達上人の遷化と阿部日顕の相伝」
と題する一文を掲載する。
「〝御相伝〟そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見た人は、だれもいなかった」
山崎はその後も、『週刊文春』『諸君!』などで、日顕に相承がないことを主張している。
本音を隠して山崎が日顕にすり寄る
それから十年余を経た平成二年末、日顕は創価学会を切り崩すため「C作戦」を企み、それを実行に移す。翌年一月、日顕が山崎に、
「あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい」
と伝えたことは、「断簡七」において述べた。山崎は同年二月二十五日に収監されるが、その直前に、おそらくは海外部書記の福田毅道と今後のことを打ち合わせたものと思われる。山崎はヌカ喜びして監獄に入る。だが、平成五年四月二十七日、山崎が仮出獄したときの状況は、山崎が入獄するときに描いていた状況とは真反対であった。創価学会は宗門という桎梏を取り払い、以前にも増して生き生きとしていた。公明党は連立政権の一翼を担っていた。入獄前、山崎は部下の一人に、
「とことんまで日顕さんが(創価学会を)やっつけるよ」
と言っていたのに、「日顕さん」は創価学会に一方的に押しまくられ、果ては「唯授一人血脈相承」を受けたと自称したにもかかわらず、その権威は猊座もろとも地に堕ち、創価学会員に対しなんらの影響力も持っていなかった。それどころか、日顕は創価学会員の嘲笑の対象となっていた。
山崎の感情としては、創価学会が崩壊の危機に瀕し、日顕が勝利の美酒に酔いしれているのが好ましいことであった。しかし、欲得の観点からすれば、日顕が窮地に立っていることはまことにありがたいことで、そこにつけ入るスキを見出したのである。山崎は出獄後、五通の密書を日顕宛に出している。山崎は昭和五十四年九月、日顕に、
「あんたは大ウソつきだ」
と怒鳴られたが、そのことについて次のように述べている。
「不幸な時代の始りにあった不幸な誤解につきましては、私自身にも責任の一端が存在していたこともあり、それ故に改めての御謝意はもとより、二度と言及されることも御無用のこと故、どうか御失念たまわりたくお願い申し上げる次第です。
『あなたはウソつきだ』といわれた時のことを思い出すとき、その記憶は怨みや怒りの感情ではなくて、苦い後悔を伴うのです」(山崎から日顕に宛てた「密書」より一部抜粋)
これは、平成五年六月、あるいは七月初め、すなわち山崎が仮出獄し、およそ二カ月後に書かれたものと思われる。この山崎の言葉が心の底から出ていると思ったら大間違いである。心にも思っていないことだからこそ、このような歯の浮くような言葉を綴れるのである。腹の中は十余年前と変わっていない。
「俺は頭に来たよ。こうなりゃ俺も命がけだよ。俺は徹底してやってやるよ。あの野郎!」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
この怒気をオブラートに包むと、山崎の場合、紹介したような綺語の連なりとなるのである。すべての言葉は日顕を嵌め込むために仕組まれている。同じ密書で山崎は、次のようにも書いている。
「正信会裁判で佐々木秀明氏が証人として『相伝問題に疑問を感じたのは、私の手記を読んだからだ』と述べていますが、これは彼の失策であります」
「私が相伝問題の手記内容を全面的に撤回したなら、正信会はたゞちにそのよって立つ基盤を失いかねない窮地に追いこまれること、そしてそのような事態を招いたのは、佐々木師自身の軽卆(ママ)な証言であることを弁護団が指摘し、皆ががく然としたからです」
山崎は日顕の弱み——、〝血脈相承〟の問題を自分がどうにでもできると売り込んでいるのである。十余年前は、徹底して〝血脈相承〟を否定していたのに、その言葉をくつがえす——。その目的は自らの欲得を図ることしかない。
山崎は、『慧妙』(平成七年二月十六日付)に、「私が〝御相承〟を拝信するに至るまで」と題し、次のように書いている。
「最近になって、私は、日顕上人猊下が〝御相承〟について示された御指南を、活字で拝読させていただく機会を得た。
微妙深遠な問題であり、また、私共凡下が窺い知るべくもない事柄も多々あるために、難解で婉曲な御表現の部分もあったが、くりかえし読ませていただくうちに、御相承の伝えられる形についての私の疑念は氷解していった。
また、あらためて日達上人の側近の方々に、細かい点の確認をし、さらに、間接ではあるが、いくつかの点について僭越な確認もさせていただいた。
その上で私は、日顕上人猊下の〝御相承〟について否定した『週刊文春』掲載の見解は、今日では、認識不足であり、大きな誤りであった、との結論に達した」(平成七年二月十六日付『慧妙』)
大仰なタイトルのわりには意味のない文章である。山崎はただ、日顕の「御指南」を読んで「私の疑念は氷解」と言っているのだ。事実の証明は何もしていない。日顕が言っているから日顕の言っていることを信用したと言っているだけのこと。「日達上人の側近の方々」に「細かい点の確認」をしたというが、いったい、誰に、何を「確認」したというのだろうか。日顕の相承に関わる情報を持っていたのは、細井管長の娘婿の大宣寺・菅野慈雲だけである。大奥の一室で日顕と法道院の早瀬日慈に、
「日達上人から何か聞いてないか」
と聞かれたという事実のみだ。十余年経って、その事実が変わったとでもいうのだろうか。菅野が黙ることはあっても、その事実は変わらない。
法主に魔が入り、一宗まるまる魔の巣窟に
山崎は、
「『週刊文春』掲載の見解は、今日では、認識不足であり、大きな誤りだった」(同)
と前言を 翻している。日顕に〝血脈相承〟なしとした、かつての『週刊文春』掲載の山崎の「見解」は正しい。ただ、この『週刊文春』の山崎の手記には、部分的に正すべき事実がある。
山崎はこの『週刊文春』において次のように記している。
「前夜は洋服を着たまま夜通し祈って、一睡もしていなかった」(『週刊文春』昭和五十五年十一月二十日号)
この山崎の記述はウソである。浜中は、山崎が当夜、次のような言葉を口にしたことを記憶している。
「いやあ、疲れたよ。疲れた時の回復は、女と会うのが一番だよ」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
また山崎は、次のようにも書いている。
「もろもろの手配のために立つ菅野尊師と一緒に部屋を出ようとした私を、日達上人が呼び止められた。それから二人だけで三十分ばかりお話しした」(『週刊文春』昭和五十五年十一月二十日号)
これにも浜中は、細井管長の夫人が緊急入院した管長から離れることはないと反論。浜中は山崎の口から、
「猊下が、『もう休む。みんな、今日は帰っていいよ』と、おっしゃるので奥さんにお任せして、菅野さんと光久さんと今、別れたばかりですよ」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
と聞いたと述べている。
山崎は平成九年の正月、正信会を離れ日顕の側につくにあたって、浜中に挨拶の電話を入れている。
「でも、俺は、阿部から『嘘つきだ』って言われたことを忘れたわけじゃないよ。誰が忘れるもんか! 今に見てろってんだ。あん畜生、必ず仕返ししてやるよ。俺を見損なうなってんだ。それじゃ、長い間、お世話になりました」(同)
このような男に血脈相承の存在を証明してもらわなければならない日顕。誰がどう見てもニセ法主である。山崎にとって日顕は、細井管長よりも与しやすいことだろう。その理由は、ニセ法主であり、自分がそのウソを真実と〝証明〟することを一任されているからだ。日顕に山崎を切り捨てる自由はない。日顕もまた、焼骨になっても山崎に利用されることだろう。ちなみに、山崎が日顕の「〝御相承〟を拝信」しても、社会的にはまったく意味がない。
平成十四年一月二十四日 愛知県名古屋市の妙道寺明け渡し訴訟に対する最高裁判決が下った。
平成十四年一月二十九日 岩手県釜石市の常説寺明け渡し訴訟に対する最高裁判決が下った。
平成十四年二月二十二日 神奈川県平塚市の大経寺明け渡し訴訟に対する最高裁判決が下った。
いずれも日蓮正宗は裁判に負けた。日顕が相承を受けたとの証明ができなかったためである。
「金口嫡々唯授一人血脈相承」「法灯連綿七百年」。どれも聞きごこちのいい言葉である。しかし、史実とは違うこうした言葉を金科玉条としている限り、〝法主〟は権威の 塊となり「現代における大聖人様」(日蓮正宗機関誌『大日蓮』平成三年六月号)となる。その権威の権化となった〝法主〟に魔が入り、大石寺一山のみならず末寺に至るまですべてが魔の巣窟となる。肉食妻帯し血縁を結び、そのしがらみの中で、在家に知られてはならぬ恥部を隠し、ただ生き延びる。生き延びる糧を運ぶのは、虚偽の史実を真実と信仰したがる「信者」たちである。
猊座が朦朧と高く聳えれば聳えるほど、供物もまた高く供えられる。かくも愚かなる人間の精神的退歩の上に成り立つ宗教もあるのである。
すべては愚かしく喜劇性を孕む。