Soka Spirit

断簡15 驕慢の燕雀

差別と暴力を教え込まれる坊主の世界

日蓮正宗では昭和三十五年三月二十八日より、小学五年生(のち中学一年生からに改正)を対象に少年得度(年分得度)がおこなわれた。将来の宗門を担うべき人材を少年期より教育しようとしたのだ。一期は二十二名。その内訳は、寺の出身者が一名、あとの二十一名は創価学会出身であった。その後も、年分得度として一年間に二十名程度、募集される。

昭和四十年頃になると、末寺で勝手に弟子を取ることは許されなくなった。すべて細井日達管長の直弟子としてしか出家と認められなくなったのだ。その直弟子たちがのちに妙観会の中核となっていく。

年分得度をした者は、「白衣小僧」として一年間仕えたのち、衣を着けることを許される。いわゆる「衣小僧」、別名「沙弥」である。沙弥を三年間務めれば袈裟を着けることが許され、「所化」(学衆)となる。所化には三等、二等、一等の階級があり、約七年かけてそれを終了する。この所化の時代に、末寺で住職の法務を手伝う。感受性の強い所化たちが見るものは、多くの場合、まったく別世界のような住職家族の生活であった。

本山で小僧、沙弥をしている時代は、寝るにもせんべい布団で寒く、年端もいかない者たちは抱き合って寝るようなありさまだった。娑婆に出て末寺に行けば、自分たちは体のよい奴隷、ひどいところになると、家族の食べる物と所化の食べる物に、歴然たる差がつけられた。

「大宣寺では、所化が病気になっても病院にも行かせないというのです。白衣の上に着る改良衣などがほつれても、だれも縫ってくれず、ホチキスでとめていたといいます。

当時は風呂もガスではなく、薪をくべて沸かしていたのですが、下の者がいつも当番で、先輩から順番に入るため、自分たちの番が回って来た時には、もうお湯がなくなっていて、入ろうにも入れないというのです。

また食事もひどく、土曜日などは食事がないこともあった。奥さんが買ってきたご馳走は、においだけを残して、二階の娘たちの所へ。それでいて、住職・菅野氏の子どもたちが食べたご馳走の残り物を、同年代の所化たちに後片づけさせるというのです。

また、寺だけでなく、住職家族の住まいである庫裏の掃除をさせられるのですが、それも同年代の娘を含めた家族が使っているトイレまで掃除させていたのです。

先輩の暴力も日常茶飯事で、特に弟の前で兄が、兄の前で弟が殴られているのは見ていられないと告白していました。中学生が顔を腫らしているのを見ても、住職も奥さんも見て見ぬ振り。何の注意もしません」(渡辺信代著『恩を忘れた阿部日顕を糾す』)

この東京・国立の大宣寺住職・菅野慈雲は、のち山崎正友の走狗となる。菅野の妻は細井管長の三女である。

なお、出家の世界では法臘(出家してからの年月)の長短がすべてである。そのため、青年得度してきた年上の者たちを、年下の少年得度の者たちが平気で呼び捨てにし、アゴで使うなどということが平然とおこなわれていた。こうした上下の差別の中では、暴力が横行していた。

「そもそも、本山での所化教育自体、差別と暴力だけを徹底して教え込むばかりで、まったく『教育』と呼べるものではありません。一種の『洗脳』です。あんな環境で、まともな人間が育つわけがありません。結局、上にはペコペコ、下には威張り散らすという、卑屈で横柄な歪んだ人間を生み出すのです」(『恩を忘れた阿部日顕を糾す』より一部抜粋)

「叱りつけた小学生の所化に対し、諭したり、優しい言葉をかける先輩がだれ一人いない。殴りっぱなし、怒りっぱなしです。その理不尽な仕打ちに対し、小学生が一人で涙をこらえて耐えている。将来に対する希望もまったくない。これはもはや教育と呼べるものではありません。万人の『平等』を説かれた宗祖の魂が、一番のお膝元であるはずの大石寺にはなかったのです」(同)

大石寺における所化いびりは日常茶飯のことであった。先輩の者たちに布団蒸しにされて窒息しかけた所化、同様に、「顔色が悪いな」と声をかけられ、「顔色をよくしてやる」と、頬を数十発、平手打ちにされた所化も数多いた。

宗内にはびこる、創価学会に与しないほうが得策という風潮

同じ所化のなかでも、代々坊主の所化は大事にされたし、親が高僧であれば破格の扱いを受けた。創価学会出身の一代坊主の少年たちは、心ない大人たちからいじめられた。その風当たりはきつかった。所化の修行をなんとか無事に終えると、本山に一年、在勤する。それを無事終えれば教師試験を受け、合格して教師となる。

「代々坊主」出身の教師らが創価学会嫌いであるのは無論のことであるが、ゆがんだ差別構造の中で生き延びてきた創価学会出身の出家らも、身体にしみ込んだ経験から、創価学会という出自を消すことが得策だと考えるようになる。多くの出家らのなかに、創価学会に与しないほうが賢明との風潮が芽生えてくるのである。それは宗内の常識となり、果ては宗内世論となる。閉鎖された社会が、その思いをさらに醸成し強固にする。

屈折した心理を持って育てられた出家らは、創価学会の幹部が対等な口をきくことすら腹立たしくなる。彼らは創価学会出現前の宗門のありさまなどまったく知らず、創価学会という膨張する組織に敵愾心すら抱き始める。

そのような機運が宗門において強くなった時、細井管長が創価学会に対する不信の募った言葉を吐く。これらの言葉は「断簡十一」で詳しく紹介した。よって、ここでは一部のみを紹介する。

「今、我々はたいへんに馬鹿にされておる、坊主、坊主と言って、馬鹿にされておる」(昭和四十九年三月二十七日、大石寺でおこなわれた在勤式、 『蓮華』昭和四十九年四月号)

「最近ある所では、新らしい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。(中略)

法華講はどこまでも、法華講の道を保ち、本山並びに自分の寺院と運命を共にする信心を堅くもって頂だきたいことを、今日はこの席からお願いする次第でございます」(同年四月二十五日、大客殿で開催された法華講登山、 『蓮華』昭和四十九年五月号)

「富士宮のこれは信者ではないけれども、ある有名な人は大石寺は前々から言う通りに、軒を貸して母屋を取られる様な事があるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だという事を放言していたという事です。私はそれを聞いて、非常に残念であると同時にまだく我々は僧侶として考えがあまいのではないかと思いました」(同年五月三十一日におこなわれた寺族同心会大会、 『蓮華』昭和四十九年六月号)

いったん点いた火を消すことは、もはや不可能になってしまった。この頃、細井管長の直弟子として年分得度した者たちは、すでに二十代に達していた。世間ではまだ若者ということになるのだが、直弟子であること、あるいはまた出家、なかんずく「教師」であることにより、信徒団体である創価学会すら評論する立場にあると錯覚する。外護する団体に対する報恩の気持ちもなければ、広宣流布の先達に対する尊敬の気持ちもない。信徒団体を高座から睥睨するようになり、二十代の若輩でありながら、創価学会の長たる池田会長が尊大であるなどと倒錯した感情すら持つに至る。

創価学会を妙信講と同一視した菅野憲道

昭和五十二年の年初に、その事件は起こった。発行前の富士学林機関誌『富士学報』が創価学会本部に届けられた。届けたのは当時、教学部長だった阿部信雄。そこに掲載された、当時二十八歳の菅野憲道の論文は、創価学会を暗に批判するものだった。論文には以下のような箇所があった。

「しかし乍ら、日蓮正宗信徒がふえるにつれて、一部には大聖人の仏法の一断面を恣意に解釈し、枝葉に拘泥して本幹を忘れるが如き本末転倒の我慢偏執の輩がでてきたのも事実である。創価学会の中では会長本仏論などという事が半ば公然といわれた事もあったし、今に元妙信講は国立戒壇という一形式論に執着して、法体相承せられる御法主上人に悪口雑言を加え、本門の戒壇を無きものとしようとしている。その他の泡沫的異分子を枚挙する暇はないが、内外ともに百鬼夜行の様相を呈しはじめている」

「今、宗門の内外を問わず邪義が新たな装いをもって出現しているが、我々はその装いに惑わされずにその本質を見極め、一々にこれを破していかなければ、後世に一大遺恨を残す結果となるのではないだろうか」

この論文の中で、創価学会と妙信講が平等に併記されていたことは、創価学会にとって驚きだった。宗門、法主を外護してきた創価学会と、宗門、法主を撹乱し攻撃してきた妙信講とが、同じレベルで取り上げられている。それどころか、創価学会の中に邪義が出現していると、妙信講の邪義と同様に危険視するよう注意を喚起していたのである。この菅野の文に見られるのは、広宣流布に邁進する信徒団体を睥睨した観念である。

菅野は最終的に一月二十日、創価学会本部に詫び状を持参し、謝罪した。その上、創価学会を誹謗する論文を掲載した『富士学報』自体が廃刊となった。

だが、出家らの創価学会に対する差別感に基づく故なき批判は、菅野だけに終わらなかった。創価学会側が調べてみると、全国各地の御講でも、集まった創価学会員を前に、創価学会批判をしていた。それらに対して創価学会青年部は謝罪を求めた。

菅野ら、反学会意識の強い僧たちは、細井管長が亡くなる直前の昭和五十四年七月四日、大石寺蓮東坊において、正信会を形成した。彼らの多くは日顕が登座したのち、擯斥処分を受けた。同処分を受けたのは百七十九名である。これらの者は処分ののちにおいても、正信会の組織を維持する。

正信会は平成十四年の宗旨建立七百五十年を記念して、平成十三年七月より平成十四年五月まで、全国十五カ所で「日蓮聖人の世界展」をおこなった。開催地は東京、札幌、青森、仙台、横浜、静岡、名古屋、岐阜、三重、金沢、大阪、神戸、広島、福岡、鹿児島。

この展覧会開催の中心人物が菅野である。

正信会によるこの展覧会は、日蓮大聖人の「大」の字を取り、「聖人展」としていた。その理由は、「大聖人」というと、創価学会や日蓮正宗とまぎらわしくなるので、日蓮大聖人を御本仏とせず、「人間的側面」を強調したというものであった。

菅野は昭和五十二年の時点で創価学会を評論したが、平成十三年には御本仏・日蓮大聖人さえも評論する立場となった。

国柱会の宮沢賢治、池上本門寺信徒の土光敏夫、その他、高山樗牛、上原専六などを「日蓮聖人」の系譜として紹介している。創価学会に対して、「日蓮正宗の教義に違背している」などと言っていた正信会であったが、所詮は純真な信仰をし、懸命に布教する者よりも、有名人が好きなだけの、世俗に迎合する〝出家〟であったのだ。

歳月は潤色を剥落させる。