Soka Spirit

断簡14 法滅尽の時

細井日達管長の師は、相承をせずに亡くなった

創価学会は日本社会において巨大な団体となり、その存在は海外からも注視されるようになっていた。しかし、その創価学会の発展を〝法が尊いのだから当然だ〟くらいにしか考えず、狭隘な閉鎖社会の中でしかものごとを判断できない集団がいた。言うまでもなく、日蓮正宗の細井日達管長を中心とする僧団である。

創価学会の発展ゆえにもたらされている宗門の繁栄——。この当たり前の因果関係すら理解できず、僧形をなしていれば、どこまでも在家より優れていると考える狂いが発生していた。世界広布を推し進めるためには忍辱の鎧を着なければならないとの法理はわかっていても、耐え忍ぶことを在家にのみ強制する出家たちの驕慢が露になる。「僧俗一致」はもはや、在家の忍従を意味する言葉となったのである。

在家が猛烈な布教をして大発展し、一千万人になんなんとしている。しかし、その一方で出家は、一千名にも満たない存在であった。出家は、在家の発展により足もとをすくわれるのではないかと、猜疑の目を向けるようになった。創価学会という巨大な信徒集団。その頂点に立つ池田会長——。その実力者に対し出家は慈悲をもって接するのではなく、権威をもって御そうとしたのだった。とりわけ噴飯ものだったのは、二十代の若僧らが、衣の権威をもって信徒を睥睨し始めたことである。これは、和合僧団の根幹に関わる重大な問題であった。

かてて加えて、教団において不動の信念を有すべき法主も、自らの原体験から、自分の身がいつまでも安泰であるとは思っていなかった。日蓮正宗の法主といっても、その座は、歴史的に見れば、極めて危ういものだったのだ。

細井管長の師僧は、第五十七世大石寺貫首である阿部日正であった(以下、細井管長以外の歴代貫首については上人、管長などを省く)。阿部日正は大正十一年十月十三日、日蓮大聖人への「立正大師号」宣下にあたり、日蓮門下各派の管長たちと宮内庁へ出向いて「宣下書」および添え状を下された後、東京・築地の水交社に赴き、日蓮宗管長・磯野日莚を導師に勤行をした。その阿部日正は舌ガンにより、大正十二年八月十八日、養生先の静岡県興津で亡くなった。この時、阿部日正は相承をすることができなかった。

宗規に基づき、大学頭の地位にあった土屋日柱が第五十八世大石寺貫首となる。阿部日正から土屋日柱への相承については、阿部日正のまわりに〝法主〟の座を狙う阿部法運(日開)の手の者がいたため、土屋日柱と必要な連絡を取ることができなかった。阿部日正は、転地療養とは名ばかりで、阿部法運派によって興津の貸家に幽閉されていたと言うこともできる。

阿部日正の相承について、『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』(昭和三十一年、日蓮正宗布教会編著、日蓮正宗布教会〈代表・細井精道〉発行)では、

「大阪の中光達居士、牧野梅太郎氏とを召されて、一切の者を遠ざけて後事を托されたのであった。(中略)かくて日柱上人との脈絡は完全についたのである」

と記載されているが、これは同書を著す時、細井管長が阿部日正ゆかりの人々を集め、

「これでいいな」

と口裏を合わせ、相承が二人の在家を経てなされたとしたものである。細井管長にしてみれば、自分の師僧が相承もせずに死去した事実は、決して宗史に刻みたくなかったのであろう。

相承に応じようとしなかった土屋日柱

さて、宗規に基づき第五十八世貫首となった土屋日柱は、登座二年余にして、高位の僧らの連名による「辞職勧告書」を突きつけられ、退座を求められた。また、それと並行して、一山を挙げての嫌がらせが、土屋日柱に対しおこなわれた。客殿での勤行中に爆発音が発したり、客殿に向かって石や瓦が投げつけられたりしたのである。これに耐えかね、大正十四年十一月、土屋日柱は辞表を書いた。

反土屋日柱派の者たちはこの辞表を持って、主務官庁の文部省宗教局に届け出た。しかし、この異常事態を聞き及んだ檀家総代たちが、同じく宗教局に談じ込んだ。事態を重視した宗教局は関係者を呼び出し、不信任決議書と辞職勧告書を提出するように命じた。宗教局としては時節柄、このような下剋上のありさまが、たとえ一山であれ、宗教界においておこなわれることを憂慮したものと思われる。

ところが、この二つの書面はすでに大石寺檀家総代の手に渡っており、同寺貫首の首を他寺の坊主らが圧力をかけてすげ替えようとしたと腹を立てた檀家総代は、それらの文書を戻そうとしなかった。

最終的には、土屋日柱と上野村村長が立会いの上で、辞職勧告に同意した者らは詫び状を書き、大石寺檀家総代から不信任決議書と辞職勧告書を返却してもらい、宗教局に無事提出した。

ところが、尊き一なる存在を衆をもって引き降ろしたとして怒った信者が、抗議行動を起こし、それが東京にまで飛び火した。

監督官庁としてこの混乱の責任を問われるべき宗教局は強権を発動し、選挙でもって後任管長を決するように命じる。しかし、この選挙の前にもひと波乱があった。土屋日柱が信者の後押しに気を強くして、「宣言」なる文書を出したのだ。その「宣言」の冒頭には、次のように書かれている。

「一 日柱の管長辞職は、に評議員宗会議員並に役僧等の陰謀と其強迫によつて餘儀なくせられたるものであれば元より日柱が眞意より出たものでない、かゝる不合理極まる経路に依て今囘の選擧が行れる事になつた

斯の如き不合理極まる辭職が原因となりて行はれる選擧に於て、日柱以外の何人が當選されたとしても日柱は其人に對し、唯授一人の相承を相傳することが絶對に出來得べきものでない事を茲に宣言する」

土屋日柱は、選挙結果がどうであれ、自分の意思以外では相伝しないと宣言した。それにもかかわらず、宗教局の命令を後ろ盾として選挙は決行された。管長候補を絞り込む選挙の結果は以下のとおりである。

 堀慈琳(日亨)   八十二点

 水谷秀道(日隆)  五十一点

 有元広賀      四十九点

 土屋日柱      三点

現職の管長である土屋日柱の圧倒的敗北であった。土屋日柱の対抗馬として、不本意ながら担ぎ上げられた堀慈琳が最終的には当選し、第五十九世の大石寺貫首に選ばれた。

しかし土屋日柱は収まらない。辞表を書いたのは脅迫によるものだとして、大宮警察署(現・富士宮警察署)に告訴。小笠原慈聞をはじめ、多数の出家らが取調べを受け、二名の坊主が書類送検された。そのようなドタバタを経て、大正十五年三月八日、土屋日柱から堀慈琳への相承が大石寺においておこなわれたが、この相承もすんなりとは済まなかった。

土屋日柱は自らの支援者が多い東京にいすわったまま、なかなか登山してくる様子がない。それに折り合いをつけるため、米七十俵、現金三千円を退職金代わりに土屋日柱に贈るという話がつき、やっとのことで相承が実現したのである。しかし、相承実現の条件である米七十俵、現金三千円の贈与は、一部履行されただけで、すべてが土屋日柱のもとには渡らなかった。この件でも後にもめごとが起こった。

法義に違背した小笠原慈聞

第五十九世大石寺貫首の堀日亨も、一山の僧らのサボタージュにあい、法務を履行することができないのに嫌気がさし、登座後二年余をもって、辞意を表明する。法務サボタージュを煽動した黒幕は阿部日顕の父である阿部法運(日開)であった。

堀日亨の跡目をめぐる管長選挙もすさまじい。選挙は阿部法運(日開)と有元広賀(日仁)の両派に分かれて争われ、ありとあらゆる手練手管が使われた。買収・供応などはまだかわいいほうで、拉致、監禁までおこなわれた。挙句、降格で脅し昇格で釣るという常套手段も横行した。もう、なんでもありの世界である。

投票は郵送にておこなわれた。しかし両派の対立は極限に達しており、どちらが勝っても流血の惨すら見込まれた。なにしろ選挙のさなか、坊主は法衣に匕首を忍ばせ、飛び歩いていたのだ。暴力沙汰になるのを未然に防ぐため、大宮署の警察官が宗務院を取り巻き、警護にあたった。柵をめぐらし、縄を張って、宗務院を立ち入り禁止とし、そこで開票となった。

 阿部法運 五十一票

 有元広賀 三十八票

だが、この不穏な管長選挙の様をつぶさに監視していた文部省宗教局は、不正の臭いふんぷんたるをもって、すぐには選挙結果を認めなかった。宗教局もこの管長選挙が尋常でないことを知っていたのだ。

宗教局の懸念は当たった。落選した有元広賀の弟子・中根某と東京・向島の常泉寺の元執事が、当選した阿部法運、水谷秀道(のちに阿部日開の跡を継いで登座することになる日隆)を背任横領で告訴した。阿部法運は向島署で取調べを受けた。どうやら横領したとされる金員が補填され、刑事事件としての立件は見合わされたようで、刑事事件がらみの騒動は落着した。

阿部日開が宗教局から正規の管長として認められたのは、昭和三年六月二日である。この時、堀米泰栄(日淳)、細井精道(日達)は、有元派に与したため、京都の住本寺に流された。

細井管長はこの京都時代、三業(料亭・待合・置屋)に関わる経営者の娘と恋仲になり、のち結婚する。日蓮正宗は貧乏寺ばかりだったので、細井管長は金持ちの娘と結婚したと、宗内で大変に羨ましがられた。

細井管長には、左遷されたこの時の思い、師僧・阿部日正の末路が原体験として、一生ついて回る。

このような抗争を経て登座した大石寺六十世貫首の阿部日開であったが、登座直後、御本尊を誤写し、出家、在家より非難を受けた。昭和十年に退座し、有元派と戦った時の盟友・水谷日隆に猊座を譲る。しかし、この大石寺六十一世貫首の水谷日隆も、妾を囲っているなどのスキャンダルが暴露され、昭和十二年十一月に退座。昭和三年の管長選挙で阿部派、有元派に分かれた抗争の余燼が、いつまでも宗内にくすぶり続けていた。

その上、戦局の進行とともに、日蓮系各派の陸海軍人、学者、実業家などで形成された水魚会を背景として、小笠原慈聞の一派が宗内をかき回す。日蓮正宗内では、まんじどもえの暗闘が続いた。

昭和十二年、スキャンダルで退座した水谷日隆の跡を受け、第六十二世大石寺貫首に鈴木日恭が登座した。小笠原は時局に迎合し、鈴木日恭を治安維持法に引っかけようと、書状をもって難詰する。その書状のやり取りは六回おこなわれたが、鈴木日恭の返書は、すべて特高関係に渡っている。東京品川・妙光寺信徒の一人が小笠原の差し金で、この返書をばら撒いたので、特高(特別高等警察)の手に書状が落ちたものと思われる。

このまま小笠原を置いていては一宗の存亡に関わると考え、日蓮正宗は小笠原を擯斥処分とした。この処分には、教学部長であった堀米泰栄が、小笠原と刺し違えるつもりで尽力した。この時の処分理由は、以下のとおり。

「其の方儀一、昭和七年より昭和十七年に至る宗費賦課金を拒否して納付せず二、布教監の職は既に消滅したるに拘らず異議を唱へて公用し三、昭和十六年七月三十日附特第五號を以て其の以前の刊行物中不穩當なるものは各自適宜處理を爲すべき樣申達し置きたるに却て自ら不穩當となすものを取出し信徒を使嗾して共に之を世上に吹聽す右の行爲は其の證憑明白にして之を宗制に照して判ずるに第一の行爲は宗制第三百八十九條第一號に第二の行爲は同條第三號に第三の行爲は宗制に明文なきも宗務院の命令に從はざるのみならず宗門教學の刷新に協力せず故意に宗門の治安を紊すものにして現下最も嚴重に戒むべき行爲と認む 以上」

すなわち、宗門は法義違背を理由に小笠原を処分したのではなく、あくまで宗費未納、役職詐称などを理由としたのである。

第六十二世・鈴木日恭の悲惨な最期

昭和十八年六月、創価教育学会の牧口常三郎会長、戸田城外理事長(のち改めて城聖)らは、大石寺大奥対面所で日蓮正宗第六十二世貫首・鈴木日恭、同第五十九世貫首・堀日亨立会いの下で、庶務部長・渡辺慈海より、

「『神札』を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうか」(『戸田城聖全集』第一巻所収「創価学会の歴史と確信」より一部抜粋)

と申し渡された。創価教育学会側は峻拒した。六月二十八日、牧口会長は改めて登山し、鈴木日恭に対し、

「『神札甘受』は過ちである」

と戒める。ところが、それに対する宗門の仕打ちは、「登山停止」の処分であった。

七月六日、牧口会長、戸田理事長らが逮捕された。逮捕後、宗門はさらに「信徒除名処分」を下し、我が身の保全を図った。

昭和二十年六月十七日午後十時三十分頃、大石寺大奥対面所北側の廊下を隔てた部屋より出火。紅蓮の炎は大奥対面所並びに管長室にすぐさま燃え移り、さしたる消火活動もできないうちに大書院を焼き、六壺、客殿をなめ尽くした。炎がおさまったのは翌朝午前四時頃だという。

この大石寺の火災により、鈴木日恭は焼死した。所化として当時、現場にいた河辺慈篤に私は、鈴木日恭の死の真相を聞いたことがある。

「日恭上人が亡くなられた時は、どんな様子だったんですか?」

河辺からは思いもよらぬ言葉が発せられた。

「ありゃー、二回、焼いたんじゃ」

河辺は、火災がおさまった後、鈴木日恭の姿が見当たらないので、必死になって探し灰燼の中から発見したと話した。河辺によれば、発見された鈴木日恭の遺体は凄惨を極めており、大奥の大釜の中に太った身体がずっぽりとはまり、はらわたが生焼けとなり、上半身黒焦げだったという。河辺の目撃談を私は東京・新橋の第一ホテルで聞いた。河辺はこの時、出火の原因についても言及し、

「ともにいた所化の増田壌允が自分のところに来て、『今、押入れの中で煙草吸ってて、ボヤを出しそうになった』と言ったので、『ちゃんと始末したか』と聞いたら、『小便かけて火は消した』と答えたので安心して寝ていたところ、一時間くらいして火事になった」

と述べた。河辺の分析では、布団の綿についた火は消えにくいので「小便」くらいでは消えなかったのだろう、ということだった。

さて、余談になるが、「日蓮正宗布教会」(代表・細井精道)が発行した『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』(前出)には、次のようなことが書かれている。

「先づ其の出火から言えば、大石寺大奥の管長居室は二階建の座敷であつて、其の三間程距てた所に応接室の對面所という建物があつた。世界大戰も漸く苛烈になつて來て、陸軍では朝鮮の人達を 悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめて居たが、大石寺も其の宿舎となつた為め数百名の朝鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊して居つた。そして此れを訓練する將校が二十数名も對面所に宿泊していたのである。

丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、將校室となつていた其の對面所の裏側の羽目に火を付けたのである。其の為め火は一瞬にして建物の全部に燃え上つたのである。其れが為めに將校は身の廻りの者(ママ)を持つて僅か三尺の縁側の外に逃げるのが漸くであつたのである。火はやはり殆ど同時に管長室に燃え上つたのである。侍僧は階下に寝ていたが、反対側の窓を破つて、之れまた漸く逃れたのである。此時には一山の者が駆けつけたが、最早や、手の施し樣もなかつたのであつて、忽ちのうちに二階建は焼失して了つたのである。一同は其れよりも延焼を防ぐべく努力したが、遂に客殿、書院、土蔵を灰燼に帰せしめたのである」

このように、同書は大石寺の出火の原因を朝鮮兵農耕隊になすりつけ、それも放火によるとした。これは、まったく許すことのできない捏造である。

捏造のボロは出るもので、静岡空襲があったのは六月十九日深夜から二十日にかけてであり、大石寺に大火があったのは、同月十七日夜から十八日未明にかけてである。日時が違っている。

鈴木日恭の死の様子についても、

「皆んな上人が戦場の如き大石寺に於て兵火の発するのを見て、遂に力の及ばざるを御考えなされて、寧ろ自決なされたと拝せられる。思えば一宗の管長とし立正安国の御聖訓を体して、国家の隆昌を祈り、国民の安泰を願い、日々夜々一宗を督励し祈願をこめ給いしに、遂に敗戦を眼前に控え、既に力及ばず、老躰を焼いて国家の罪障を滅せんにはしかずとして、自決の道を選ばれたと拝せられる」

と同書には記述されているが、これもまったくのウソ。この時、所化として大石寺にいた河辺が私に話したのが真実である。私が河辺から鈴木日恭の焼死について聞いた時は、後藤隆一(元(財)東洋哲学研究所所長)も同席していた。

密かに僧籍復帰していた小笠原慈聞

さて、鈴木日恭の突然の焼死により、讃岐本門寺系の秋山日満が大石寺の第六十三世貫首となる。ところが秋山日満は、讃岐本門寺という傍流の出身だったため、登座から一年半後の昭和二十二年七月、大石寺の杉を勝手に伐採したとの嫌疑をかけられ、退座を余儀なくされた。秋山日満は昭和二十六年一月、高知県土佐郡森村の片田舎の小さな本因妙寺で落魄する。この讃岐系の秋山日満の時代、昭和二十一年七月十一日をもって、讃岐本門寺が日蓮正宗に帰一したことを付言しておく。

この少し前、同年三月三十一日に同じく讃岐系の小笠原慈聞が擯斥処分を解かれ、僧籍に復帰している。小笠原の僧籍復帰は「令第二二號」として通達された。文面は以下のとおり。

「令第二二號

             香川縣三豊郡下高瀬村

               元大僧都 小笠原慈聞

 右者宗制第三百九十四絛及同第三百九十五絛ニ依リ特赦復級セシム

  昭和二十一年三月三十一日

   管長  秋山日滿

    特赦理由書

 右者昭和十七年九月十四日宗制第三百八十九絛ノ一同絛ノ三ニ依リ擯斥處分受ケタルモノナルモ其後改悛ノ情顯著ナルヲ認メ宗制第三百九十五絛ニ依リ復歸、復權、復級セシムルモノナリ」(昭和二十一年五月十五日発行、『宗報』第一号)

小笠原は、創価教育学会が戦中に弾圧を受ける直接の因を作った者である。その小笠原を僧籍に復帰させていながら、日蓮正宗はその事実を創価学会側にまったく知らせなかった。こののち小笠原は、昭和二十一年十月の宗会議員選挙、同年十一月の監正員選挙にも立候補している。

細井管長(当時、庶務部長)は讃岐本門寺が帰一した翌年の昭和二十二年八月、同寺でおこなわれた御虫払法要に参列している。このときの導師は同寺貫主の相馬日鳳。もちろん帰一の立役者・小笠原も列席していた。細井管長はこの時の模様を日蓮正宗機関誌『宗報』(第十三号、昭和二十二年九月十五日発行)に、「讃岐行」と題し寄稿している。

昭和二十七年四月二十四日から二十八日にかけて、宗旨建立七百年慶祝記念大法要がおこなわれる。その期間中の二十七日、牧口常三郎・創価学会初代会長獄死の近因を作った小笠原慈聞に対して、創価学会青年部は同会長の墓前での謝罪を求めた。小笠原は自ら筆を執り墓前で謝罪状を書いた。しかし、この創価学会青年部の行動に対し宗門は、僧籍にある者に〝狼藉〟を働いたとして問題視した。ところが、前年五月三日、常泉寺においておこなわれた創価学会第二代会長推戴式において、戸田第二代会長が、小笠原を僧籍復帰させていると細井管長(当時、庶務部長・細井精道)に問い質したところ、その事実を否定した。さらに宗門では、昭和二十六年五月号の『大日蓮』において、宗務院庶務部名で、

「五月一日附聖教新聞に鈴木日恭上人を告訴し日蓮正宗を解散せしめようとした坊さんが総本山に居る旨書かれていますが、かかる僧侶は現在の日蓮正宗に僧籍ある者の中には一人も居りませんことを明かにして置きます」

との「お断り」を出した。

四月二十八日、宗旨建立七百年慶祝記念大法要は無事終了したが、この法要の折、創価学会青年部が「出家」(小笠原慈聞)に〝狼藉〟をしたことが問題になった。だが創価学会側は、小笠原が日蓮正宗の僧籍にないと思っていた。それは前年に細井管長が明言した言葉、『大日蓮』掲載の「お断り」を信じていたからである。だが、あにはからんや、小笠原は前述したように、昭和二十一年三月三十一日に僧籍復帰していたのだ。しかし、その事実は細井管長が戸田会長にウソをついたことを示す。かつ、小笠原がかつて僧籍復帰していた事実を出家ぐるみで隠蔽していたことになる。実は、小笠原はそれに先立つ昭和二十二年四月におこなわれた日蓮正宗宗会議員選挙に立候補し、四十四票を獲得したが次点になっている。従って、小笠原の僧籍復帰を知らないはずがない。

でっち上げた証拠で戸田城聖第二代会長を処分

四月三十日付で日蓮正宗機関誌『大日蓮』四月号が、発行された。これは予定より二十三日遅れである。そこには、小笠原僧籍復帰について以下のような公式文書が掲載されていた。

「令第三十一號

                       岐阜縣武儀郡美濃町

                       本玄寺内 舊大僧都 小笠原慈聞

 右者宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條二項に依り昭和廿七年四月附特赦復級せしめる

  但し住職を認めその他の利權は保留する

   昭和二十七年四月五日

                           日蓮正宗管長 水谷日昇

                           宗 務 總監 高野日深

      特赦理由書

      岐阜縣武儀郡美濃町

       本玄寺内 小笠原慈聞

 右者昭和十七年九月十四日附に擯斥處分を受けたるものであるが其の後改悛の情も認められ同本人も老齢のこと故関係信徒の特別なる懇願等もあるので情状を酌量し且つ本年は宗旨建立七百年の佳年に當り慶Aすべき時であるから特別なる計らいを以て宗制第三百八拾六條及び第三百八拾七條に依り特赦復級せしめ住職權のみ認める

  昭和二十七年四月五日

                           日蓮正宗管長  水谷日昇」

宗旨建立七百年慶祝記念大法要で『大日蓮』の発行が遅れていることを渡りに舟とし、小笠原が昭和二十一年に僧籍復帰を果たしていた事実を隠し、急ぎこのような文書をでっち上げたのだった。この偽造された文書をもとに、六月二十六日から二十九日まで、日蓮正宗臨時宗会が開かれる。そこで創価学会の戸田城聖第二代会長に対し以下のような処分を求める決議をした。

「一、 所属寺院住職を経て謝罪文を出すこと

一、大講頭を罷免す

一、戸田城聖氏の登山を停止す」

戸田会長は宗会中に水谷日昇へ「始末書」を提出した。その後、水谷日昇より出された「誡告文」を受け、七月三十日、戸田会長は「御詫状」を提出し五重の塔修復を申し出て、創価学会に対する宗会の処分実施は回避される。

創価学会の存在意義を理解していた水谷日昇、堀米日淳

さて、話を戻そう。小笠原を僧籍復帰させた秋山日満が、材木の不法伐採で本山より猊座を追われた後、第六十四世の貫首の座についたのは水谷日昇であった。水谷日昇の時代の昭和二十五年、大石寺の観光地化が真剣に検討された。戦後の農地解放で土地を取られた大石寺は、食い扶持にも事欠くありさまであった。だが、大石寺のそうした窮状を見かねた戸田会長が登山会を発案し、実行に移したのである。

ここまで第五十六世・阿部日正より縷縷、大石寺の貫首のありさまを書いてきたが、安詳として猊座をまっとうできたのは、水谷日昇ただ一人である。水谷日昇が同職をまっとうできたのは、創価学会の戸田会長の庇護があったればこそのこと。

水谷日昇が次の堀米日淳に相承したのは、昭和三十一年三月三十日。水谷日昇が亡くなったのは、翌昭和三十二年十月十四日であった。新たに大石寺第六十五世貫首となった堀米日淳は、登座前より創価学会に対して深い理解を持っていた。牧口初代会長について、次のように話している。

「牧口先生の折伏のことでありますが、折伏といへば先生、先生と言へば折伏のことと、ことほどさように、先生と、折伏とは、重要なものでありますが、これはいふ迄もなく深く大きな慈悲心を持たれた先生が、思ひやりの止むに止まれぬ心からの救済の現れでしかも真実に、而も忠実でありなほかつあの厳格が、折伏の形をとられたのであります。『彼が為に悪を除くは此れ彼が親なり』この文は先生が、信条とせられたところであります。価値に於て行動の世界を直視せられつつあつた先生は、一にも二にも実行で、理念的なものは、聞いても居られないといふ風にいらだたしさを感ぜられたようでありましたが、この本質のうちからあの折伏の行が、発露せられたのだと私は考へて居ます。

もとより、妙法の信に住せられた先生が、日蓮聖人の折伏の行軌を追はれたのはいふまでもありませんが、しかしそれは、追はれたといふより先生の生来の行き方が、妙法により開顕され点眼されたといふのが当つてをると思ひます」(昭和二十二年十月十九日、東京教育会館、創価学会第二回総会御講演、 『日淳上人全集』所収)

「私は先生が、法華によつて初めて一変された先生でなく、生来仏の使であられた先生が、法華によつて開顕し、その面目を発揚なされたのだと、深く考へさせられるのであります。そうして先生の姿にいひしれぬ尊厳さを感ずるものであります。先生には味方もありましたが、敵も多かつたのであります。あの荊の道を厳然と戦いぬかれた気魄、真正なるものへの忠実、私は自ら合掌せざるを得なくなります」(同)

戸田第二代会長についても、

「御承知の通り法華経の霊山会において上行を上首として四大士があとに続き、そのあとに六万恒河沙の大士の方々が霊山会に集まつて、必ず末法に妙法蓮華経を弘通致しますという誓いをされたのでございます。その方々が今ここにでてこられることは、これはもう霊山会の約束でございます。その方々を会長先生が末法に先達になつて呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を七十五万として地上に呼び出したのが会長先生だと思います」(昭和三十三年五月三日、東京メモリアルホール、創価学会第十八回総会御講演、 『日淳上人全集』所収)

と述べ、さらに創価学会についても、その本質を見定め賞賛を惜しまなかった。

「創価学会が人類の幸福の為に着々と自他共にその幸福を実現している事は尊い事であり何とも申し様の無い尊さを感ずる次第である。学会は人類の幸福を願いとし、正しい宗教、信仰を招来せしむる事に大願を置かれて日夜活躍している。(中略)日蓮大聖人は四弘誓願は、只七文字の題目を唱え、我も致し人をも導く事による以外には途は無いと説かれて居る。この道は容易ではないが、皆様と共に人類の幸福の為愈々精進して行く以外にはない。広宣流布の為の大折伏は学会の皆様へ御願い申します」(昭和二十七年十二月七日、東京・中央大学講堂、創価学会第七回総会御講演、 『日淳上人全集』所収)

「正法は必ず広宣流布する、これらはもう仏の誓いでございます。後五百歳に広宣流布して鳩槃荼等にその便りを得せしむることなしとおつしやつてある。その誓が実現しなければ仏様は真実を述べられたということはないわけです。ですから、これからが、いよいよ広宣流布へ進んで行く段階になつたと思うのであります。会長先生は基盤を作つた、これからが広布へどんどん進んで行く段階であろうと思うのでございます。(中略)どうかその意味におかれて、先程来大幹部の方、役員の方々、又皆様方が相い応じて心も一つにし明日への誓を新たにされましたことは、全く霊山一会厳然未散と申すべきであると思うのであります。これを言葉を変えますれば真の霊山で浄土、仏の一大集りであると私は深く敬意を表する次第であります」(昭和三十三年五月三日、東京メモリアルホール、創価学会第十八回総会御講演、 『日淳上人全集』所収)

創価学会擁護の姿勢を貫こうとした細井日達管長

堀米日淳が亡くなったのは昭和三十四年十一月十七日。細井日達管長への相承は、亡くなる前日の十六日におこなわれた。しかし、堀米日淳が生前最後に会ったのは、創価学会の池田大作総務(当時)であった。その時、堀米日淳が池田総務に語った言葉が、同月二十日付の『聖教新聞』に掲載されている。

「戸田先生のおかげで、創価学会のおかげで、大法は清浄に、今日までまいりました。本宗は、戸田先生、創価学会の大恩を永久に忘れてはなりません。こう、細井に言っておきました」

またその時の模様について、堀米日淳に師事していた工藤玄英(東京立川・大宝寺住職)は次のように語っている。

「池田先生は、日淳法主の枕元で、もうか細くなった上人の言葉を一言も漏らすまいと、法主の口に耳を近づけて聞かれていた。『それはそれは、厳粛なお二人の姿だった』」(平成十一年十二月十四日付『聖教新聞』)

細井管長は、堀米日淳の指南どおり、創価学会擁護の路線を貫こうとする。創価学会との和合をなした水谷日昇、堀米日淳という二名の〝法主〟のみが、その責務をまっとうすることができた。その歴史的事実からすれば、堀米日淳から細井管長への、「創価学会の大恩を永久に忘れてはなりません」との最後の指南は、そこに日蓮正宗の一縷の希望と未来があるとの思いにあふれたものであった。

細井管長は、その当時宗内に根強くはびこっていた反創価学会意識を払拭しようと努めた。

昭和三十五年五月三日、東京・日大講堂で開催された第二十二回本部総会において、池田第三代会長推戴式がおこなわれた。同総会に出席した細井管長は次のように述べた。

「宗祖大聖人様は開目抄に『詮ずるところは天もすて給へ諸難にもあえ身命を期とせん』とおおせられております。このことばこそ、今日、推戴式を行なわれた創価学会三代会長池田大作先生におくるものであります」(昭和三十五年五月六日付『聖教新聞』)

同月十三日、大石寺でおこなわれた園遊会において細井管長は、

「先師日淳上人はご臨終のとき僧俗一致と申されておりました。これは常に私の耳にひびくことばであります。しかしことばのみではなく、私はこれを解釈して、学会員が折伏によってうける法難の苦しみは僧も共に苦しみ、僧のうける法楽も、学会の皆さんにも共に楽しんでいただく、苦楽を共にしてこそ、僧俗一致がなりたつのだと思っております」(昭和三十五年五月二十日付『聖教新聞』)

と述べた。同年八月七日には、創価学会の発展に遅れをとっている法華講に対し、細井管長は次のように話している。

「昭和二十六年、学会が七十五万世帯をやるといったときも、法華講で七十五万、両方で百五十万やれば日本の広宣流布はできるということでしたが、法華講の方はそれも達成できなかったのであります。

その後、バラバラの形できましたが、平等に大聖人の信者としてお互いに連携してやっていただきたい。小さな講中には、学会から派遣してもらうこともよいし、また、このような会合ももってやっていきたいと思うのであります」(昭和三十五年八月十二日付『聖教新聞』)

昭和二十六年当時、百五十万の信者がいれば日本の広宣流布はできるという判断があったことがわかる。しかし、どのような形が広宣流布の完結かということが明確ではなかった。この細井管長の話のなかに、創価学会が法華講に幹部を派遣することもあり得るという考え方が示されているのは注目に値する。

今、日蓮正宗では指導教師(出家)の指導がなければ正しい信仰もできず、その引導がなければ成仏しないといったことを主張しているが、これは指導教師が増えてから作られた理屈であることもわかる。だが、旧来の信者である法華講の者たちの複雑な思いは、創価学会の発展とともにふくらむ。

池田会長は「折伏の大将」と宣揚

「信心の上からとらえていただければ、大聖人の仏法の広宣流布が進んでいることを喜んでいただけるはずなのに、何か、自分たちのお寺を新参者の学会に取られるような感覚だったのでしょうが、法華講の人たちの心の歪みは大変悲しいことでした」(『恩を忘れた阿部日顕を糾す』第三文明社刊)

この本の筆者は、法主・日顕が狂った日蓮正宗から離脱した、神奈川平塚・大経寺の渡辺慈済住職の妻・信代夫人である。夫人は寺族として寺で育ったが、創価学会出現前の寺は実に困窮していたと述べている。給食費には事欠いたし、本も買ってもらうこともできなかったと記している。

昭和三十八年七月十五日、法華講全国連合会辞令伝達式において、細井管長は法華講に対して「訓諭」を出した。そこには次のような文が盛られている。

「若し聊爾たりとも、此の清浄無比にして護惜建立の赤誠に燃ゆる一大和合僧団創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ謬見を懐き謗言を 恣にする者ありとせば、其籍、宗の内外に在るを問わず、全て是れ、広布の浄業を阻礙する大僻見の人、罪を無間に開く者と謂ふべし

庶幾くは、全国の法華講々員軽挙妄動、宗徒の体面を損するが如きこと無く、宜しく創価学会々員至心の求道精神を会了得解し、亦其を尊崇亀鑑とするに吝かならず、以て歩を一にして仏国土建設に、共に撓みなき前進を遂げられんことを」(昭和三十八年七月二十日付『大白法』)

細井管長は、同年十二月十五日には創価学会男子部総会において、僧と俗との広宣流布における役割分担について明らかにしている。

「この折伏も摂受も一仏の境界から出るのでございます。末法は総じて折伏でありますから、学会員の皆さまは折伏のうえの折伏、すなわち、別して折伏を行じ、われわれ僧侶は、折伏のうえの摂受、すなわち別して摂受を行じておるということになるのでございます」(『大日蓮』昭和三十九年一月号)

昭和三十九年一月、細井管長は池田会長を宣揚し、

「今や池田会長は四菩薩の跡を継ぎ、折伏の大将として広宣流布に進軍しております。

私は僧として薄墨の衣と白五条の袈裟に身を托し、折伏の上の摂受によって、一切の宗教儀式の執行を主宰いたしております」(『大白蓮華』昭和三十九年一月号)

と述べ、池田会長が「折伏の大将」、自分たち僧が「宗教儀式の執行」をおこなうとしている。

創価学会の発展についていけなかった宗門

昭和四十五年五月三日、第三十三回本部総会が東京・日大講堂で開かれた。この時細井管長は、昭和二十年の終戦当時、大石寺の所有地は境内地を含め三十一万八千余坪であったが、農地解放により二十六万六千余坪を手離したと語った。残ったのは五万一千余坪。この後、大石寺は困窮の極みに達し、観光地化により食いつなぐことが寺内の会議において真剣に打ち合わせされたとし、この窮状を見かねて創価学会が登山会を始めた。それ以降、水谷日昇、堀米日淳の時代に十一万五千余坪を購入し、計十六万五千余坪となり、昭和三十五年以後の十年間で池田会長が百万二千余坪を供養したことにより、大石寺の所有地が百十七万余坪になったと述べている。大石寺は農地解放前のほぼ三倍の広さになった。僧侶の数も昭和三十五年は三百三十人だったが、現在は九百人と話している。

昭和四十八年八月三十日、細井管長は、大石寺でおこなわれた教師講習会開講式において戦後の大石寺の窮状を次のように述べている。

「僧侶も塔中の住職等皆、山林を開墾して、そこへ芋やキビ、トウモロコシ等を植えて生活をしていったのでございます。大坊においても食べる米がなくてさつまいもが常食で、ことに富士山のヒエを買って、ヒエのおかゆを食べておった時もあるのでございます」(『大日蓮』昭和四十八年十月号)

翌三十一日の大石寺における教師講習会閉講式において、細井管長は次のように話した。

「今、その中心となって池田会長が一生懸命にやっておる。宗門にとっては僧俗一致が大事である。共々に仏に仕える身、仏道を修行する身という大道に立って進むべきである。それをいかなる謗法の世界から中傷・非難があったとしても、小さな声でお互いに法華弘通の人々に対し悪口を言うことはいけない」(『蓮華』昭和四十八年九月号)

そして、池田会長が「大鵬」、陰でつまらぬ批判を言う者は「燕雀」であると断定している。細井管長がこのように叱咤したのは、広宣流布の前進のために優秀なる僧の輩出が不可欠だと考えたからだろう。実際、大石寺の僧のレベルは低かった。そうした事例には事欠かない。

昭和三十三年三月一日、大講堂落慶法要がおこなわれ、その慶祝登山が二日から一カ月にわたりおこなわれた。そのさなかの三月下旬、所化頭の的場正順は、小学校低学年の所化小僧の頭に六壺で使われていた鈴をかぶせ鈴棒で激しく叩いた。小僧は気も狂わんばかりのありさまであった。その後、的場は出入りの飲み屋「三幸」で泥酔しているところを発見され、当時本山に在勤していた渡辺慈済に潤井川に連れて行かれ、顔を洗わされた。この当時、小僧は坊主らの鬱憤晴らしのイジメの対象でしかなかったのだ。この時、的場は三十を越えていた。昭和三十年代の日蓮正宗の末寺においては、受付をする執事らが供養を横領するのは日常茶飯事であった。なかには供養を掠め取り、ピストルを買う極道まがいの坊主までいた。そのため、受付に女子事務員を置く寺が増えた経過がある。

昭和三十三年九月十四日、青森県・弘前に創価学会寄進の寺院・東大宣寺が建てられたが、その落慶法要の折、のちに管長となる細井総監が導師をした。創価学会員らの供養は一室に集められ、熨斗袋を開いて現金はザルに盛られた。当時、出回っていた紙幣の金種は一円札、五円札、十円札、五十円札、百円札、五百円札、千円札であった。本来なら金種別にわけ、導師に従った各僧侶には相応に供養が渡されるべきだろう。だが、そのごく当たり前のことすら、当時の日蓮正宗ではおこなわれていなかったようだ。なんと、細井総監はザルから金を手づかみにし、一人ひとりに、

「これは、あんた。これは、あんた」

と裸銭を配った。この時、創価学会男子部長の秋谷栄之助(のち創価学会第五代会長)に言われ、落慶法要の警備のため東京より参詣していた男子部隊長の小池廣司が、その情景を間近に見る。小池はあまりの出来事に、座ったままでその場を立ち去ることもできなかった。細井管長にしてから、総監当時はこのようなありさまであった。

宗門の体質は前近代的そのものであった。その後、池田会長が第三代会長に就任し、創価学会の基盤整理がおこなわれる。それを反映して宗門も、宗教団体としての体裁を整えてきた。だが、本山の土地取得にあたっては農地法違反などを犯した。その事務処理すらままならないというのが、昭和四十年代後半における現実であった。そのため宗門は、創価学会の発展についていくことがまったくできなかったのだ。