池田会長の海外における活動
この「断簡十三」は、これまで昭和五十一年までのことを記述した流れからすれば、続いて昭和五十二年に入り、それ以降に起きた宗門問題を扱うべきだろう。だが、単純に編年的手法をもって大石寺と創価学会との問題に入っていくならば、創価学会が社会においてどのような影響力を持つ存在であったかについて、誤った判断を与えてしまう。つまり、このまま昭和五十二年以降の宗門との問題に入れば、創価学会が日蓮正宗および大石寺という、千人にも満たぬ閉鎖的な出家社会の宗教的権威と拮抗する団体にしか映らないという結果すら招きかねないのである。
この頃すでに、創価学会の活動は、日本国内にとどまっていなかった。日蓮大聖人の閻浮提広宣流布の教えに基づき、世界広布に向かって着実な地歩を固めつつあったのである。だが、創価学会が社会における存在感を増すにつれ、それに対する評価がさまざまな波紋を呼んだ。さらにそれが、細井日達管長を頂点とする宗門にさまざまな影響を与えることとなった。この連鎖の構造は、管長が阿部日顕に替わってからも同様である。
日蓮正宗は創価学会が社会的に批判されれば、そのような信徒団体とは別の団体の顔を装い、創価学会の池田名誉会長が全世界的に評価を受ければ、これまた「八風」(利〈うるおい〉・衰〈おとろえ〉・毀〈やぶれ〉・誉〈ほまれ〉・称〈たたえ〉・譏〈そしり〉・苦〈くるしみ〉・楽〈たのしみ〉)に犯されているというのだ。これらのことは極めて象徴的な例であるが、社会との関連のなかで、宗門の創価学会に対する姿勢が微妙に変わってきたことは否めない。
そこでまず、この「断簡」の前提として、池田会長の海外での活躍をおおまかに把握しておきたい。
昭和四十七年十月、正本堂落慶法要がおこなわれたが、それより前の同年五月十七日、池田会長はアメリカを訪問。正本堂が落慶した翌年の昭和四十八年八月にも訪米(ハワイ)している。
昭和四十九年に入ると、世界広布の戦いはより広範なものになる。それはまた、単に自教団の教勢を拡大することに限らず、その頃米ソの対立により高まっていた国際的緊張を打破するため、一民間人としてできうる限りの努力をしようとの意欲に満ちた動きであった。昭和四十九年における池田会長の平和のための行動は多忙を極める。
一月二十六日〜一月三十一日 香港
香港大学、中文大学を公式訪問。
三月七日〜三月十七日 アメリカ
カリフォルニア大学バークレー校、ニューオーリンズ大学を公式訪問。
三月十八日〜三月二十日 パナマ
ラカス大統領を表敬訪問し意見交換。
三月二十二日〜三月二十八日 ペルー
サンマルコス大学を公式訪問。
三月二十九日〜三月三十一日 メキシコ
サンタアナ市長から名誉市民の称号、市の鍵、楯を贈呈される。
四月一日〜四月十二日 アメリカ
UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で講演。
五月二十九日〜六月十五日 香港・中国
中日友好協会幹部と懇談。北京大学を訪問。李先念副首相と会談。
九月八日〜九月十七日 ソ連
モスクワ大学を訪問。ソ連最高会議を表敬訪問、ルベン民族会議議長と会談。文化省、教育省を訪問。レニングラード大学を訪問。ショーロホフ氏と対談。コスイギン首相と会見。
十二月二日〜十二月六日 中国
北京大学革命委員会の王主任らと懇談。周恩来首相、小平副首相と会見。
九月のモスクワでのコスイギン首相との会見では、
「ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか?」(『グラフSGI』平成十四年十月号より一部抜粋)
との池田会長の問いに、コスイギン首相は、
「攻撃するつもりも孤立化させるつもりもありません」(同)
と答えた。さらに池田会長が、
「それを中国首脳に伝えてよろしいですか?」(同)
と述べると、
「結構です。ぜひ伝えてください」(同)
とコスイギン首相は答えた。そのコスイギン首相の言葉を伝えるべく、池田会長は中国へ向かった。
当時の国際情勢を考えるならば、一民間人に託された大国の首相のこの伝言は、常識を超えたものである。この当時、中ソ両国の間では国境線をめぐり小競り合いが続いていた。識者のなかには、中ソ戦争を予見する者もいた。
公安調査庁が創価学会を監視する不当さ
昭和五十年も、池田会長はアメリカ(一月八日)、中国(四月十五日)、フランス(五月十五日)、イギリス(五月二十日)、ソ連(五月二十四日)、アメリカ(七月二十四日、ハワイ)、中国(九月二十四日)と、各国を訪問している。世界広布、世界平和への精力的な戦いが続いた。
だが、それが人類の希求する平和への戦いであることを理解できない者たちがいた。東西冷戦の中、パワー・ポリティクスの目でしか人を評価できない者たちである。法華経という、真の平等観に立ち、世界平和を打ち立てようとする新しい世紀の指導者の動きは、政治家、官僚、軍人など、経験則的に固定された概念からしかものごとを発想できない人々には、自分たちとはあまりに異なる次元で活躍する池田会長の活動が理解できなかったのである。
信じ奉るところの日蓮大聖人の教法に則り創価学会が前進を遂げたことに対し、当時の時代性の中でより深い不信を前提として国際情勢を分析するようになった民間人や軍人が、知らぬ間に創価学会の組織的解体、あるいは衰微、変質を狙い策謀をめぐらせていた。それにより、偏狭な愛国主義と特務戦の経験を持った者たちがうごめき始めたのである。
公安調査庁は、昭和三十九年十一月十七日の公明党結党直後、二人の専従調査員を置き、創価学会および公明党を調査させた。昭和四十一年六月からは公安調査庁第二部第三課が、創価学会についての調査報告をまとめるようになった。そのレポートは『新文化研究』と題され、月一回、A五判約八〇ページにタイプ印刷され、限定五十部、作成された。内容は、行事、人事、池田会長の発言詳細、創価学会本部を来訪した著名人の名前などを基本に、その動向を報告したものである。外部の宗教学者、評論家などによる研究レポートも入っているという。この『新文化研究』は昭和四十七年頃まで刊行されていた。公安調査庁が国家機関として存在する法的根拠は破壊活動防止法(破防法)である。だが、創価学会は破防法の適用団体ではない。国家により一宗教団体に対する違法な諜報活動が継続的になされたのは、由々しきことである。ちなみに、公安調査庁のみならず、自衛隊調査隊、警察の公安などでは、創価学会のことを呼ぶにあたり「スミレ」という隠語を使っている。
昭和四十二年八月二十四日、東京・両国の日大講堂においておこなわれた創価学会学生部幹部会において、池田会長は沖縄返還を訴えた。昭和四十三年に入ると、公明党は在日米軍基地の実態調査に乗り出し、有効利用されていない土地を割り出し、基地の一部返還を主張した。続いて同年九月八日、東京・両国の日大講堂において創価学会学生部総会が開催された。その席上、池田会長は日中国交回復を提言する。
「いうまでもなく、中国問題は現在の世界情勢において、平和実現への進路のうえで非常に重大な隘路になっております。第二次大戦後、今日にいたる二十数年間の歴史をみても、東西二大陣営が、軍事的に真っ向から衝突し、悲惨な戦争を引き起こしたのは、ほとんどアジアの地でありました。周知のように、その一つは朝鮮戦争であり、もう一つは現在も続いているベトナム戦争であります。
これらの戦乱に関係している自由主義陣営の旗頭はアメリカであり、共産主義側の後ろだてはソ連よりもむしろ中国なのであります。しかるに、その中国の国際社会における立ち場は、国連にも参加せず、諸外国ともきわめて不安定な外交関係しか結んでいない。〝竹のカーテン〟につつまれて、お互いの実情が漠然としか、わからないというありさまであります。このいわば国際社会の異端児のような中国を、他の国と同じように、平等に公正に交際していくような状態にもっていかなければ、アジア、世界の平和は、いつまでたっても実現できない。そのことを私は非常に憂えるのであります。そして、これこそが韓国や台湾、ベトナム、タイ、ラオス等のアジアにおける国々の政治的安定と、経済的繁栄を可能ならしめる絶対条件であると確信したい。
それでは、そのために必要なことは何か。その一つは中国政府の存在を正式に認めること。第二は、国連における正当な席を用意し、国際的な討議の場に登場してもらうこと。第三には、広く経済的、文化的な交流を推進することであります」(『池田会長全集4』昭和四十六年十二月刊)
この学生部総会には私も参加していた。学生部の先輩が、
「今日の先生の提言は、大きな社会的波紋を呼ぶよ。大変なことだよ、これは……」
と言った。私は、
「そうだろうな」
と思う程度だった。ところが、私の人生の運命的な連鎖により、十年後にその発言の重さとその提言がもたらした波動の大きさを、思い知ることになる。
在日米軍、国務省も創価学会公明党を注視
こうした創価学会および公明党の動きを、アメリカの国防に関わる重要問題として、在日米軍のみならずアメリカ国務省が注視していたのは間違いない。それまでの日本は五十五年体制のもと、自由民主党と日本社会党が馴れあい的〝対立〟をしていた。これはアメリカにとってきわめて理想的な均衡であったといえる。野党である日本社会党は、非武装中立というまったく実現不可能なスローガンを掲げていた。これはアメリカの国益に適ったものだった。アメリカにとっては、日本が日米安保により自国の従属的、軍事的支配下にあることが望ましかった。アメリカが最も恐れたのは、日本の自主憲法制定、再武装である。
ところが公明党は、日本社会党のように対米従属を脱することをスローガン的範囲にとどめず、地道な調査で在日米軍の「基地総点検」を成し遂げ、基地の実態を暴いたのだった。それと相前後して、公明党の生みの親ともいえる創価学会の最高指導者・池田会長が「沖縄返還」「日中国交回復」の提言をおこなった。しかも、当時の公明党は安保条約廃棄を基本としていた。
昭和四十四年十月には創価学会系の学生組織・新学生同盟(新学同)が東京・代々木公園において結成大会をおこない、七万五千人を結集した。これは驚異的な人数であった。私も、新学同をバックアップする学生部機関紙局のメンバーとしてこの集会に参加したが、演壇の脇から見たら、集まった人々のはるか向こう、外縁部は土煙でかすんでいた。新学同の事務所は東京・神田にあり、二十四時間、公安の監視下にあった。「安保粉砕」をスローガンにしていたからである。
アメリカからみれば、既存の政治的な考えの枠にはまらない公明党とその支援団体である創価学会の膨張は、極東の安全にとって大変な脅威に映っていたはずだ。しかも、公明党のわかりやすい主張に国民の支持が集まり始めていた。アメリカにとって、創価学会の最高指導者である池田会長の発言、行動は日本国での最重要調査項目であったと思われる。
なお、池田会長が提言した「沖縄返還」(昭和四十二年)は昭和四十七年五月に、「日中国交回復」(昭和四十三年)も昭和四十七年九月に同じく現実のものとなっている。アメリカは日中国交回復に先立つ同年二月にニクソン大統領が訪中し、のち昭和五十四年一月、カーター大統領の時に米中の国交が正常化した。米軍の戦略担当者は、アメリカ合衆国政府自体がのちのち下す高度な政治判断について、まるで予見できていなかったといえる。
アメリカのこうした高度な政治判断の変換は、時代の潮流に適った至当なものといえる。池田会長は、そうした判断が下される数年前に提言をおこなったため、米国・軍事戦略担当者によって、その動静を監視されることになる。
のち、昭和五十一年『月刊ペン』誌上で、池田会長に関するデマ記事を書く隈部大蔵は、昭和四十三年二月、「隅田洋」のペンネームで『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅』という本を東北出版より出版している。
隈部は、創価学会と公明党が日本の社会で力をつけることに大きな危機感を抱いていたのだ。同書を出版した動機もそこにある。
同年九月、東京都中央区西八丁堀二丁目十九番地(当時の住所表記)の田口ビル二階に所在する探偵会社「八紘社」に隈部が現れた。隈部はその後も何度か八紘社に出入りするが、この時、
「この出版に成功すれば二千万円になる」
と話している。この八紘社は、現代思潮社という出版社を改称したもので、出版を企図して設立された会社が、探偵会社に変貌したものだった。社長は綿貫三男。綿貫は元警視庁公安部外事二課に勤めていた男である。
また、綿貫は生長の家の講師として全国を飛び回っていた。生長の家はこの頃すでに新宗教団体連合会(新宗連)を脱退(昭和三十二年)していたが、綿貫はその新宗連の調査室にも出入りしていた。新宗連調査室は『戦後宗教回想録』を昭和三十八年八月に出版している。同『回想録』には、宗教学者や文化庁の役人などが寄稿している。これには、この当時、社会的に〝新興宗教〟と蔑まれていた新宗連加盟の各教団の社会的立場を高めようとの目的があった。と同時に、同『回想録』に寄稿した宗教学者や文化庁の役人などを自陣営に取り込もうという思惑もあった。
さらにもう一つ、別の目的があった。
同『回想録』の編集委員に三島鎮という名前がある。三島は昭和五十年頃、『宗教評論』編集長の私に語った。
「新宗連調査室は創価学会対策のために、本当は作られたんだ。当時、秋葉原に裏事務所があってね。そこで創価学会に対する情報収集をしていた」
八紘社の社長・綿貫は、先述したように警視庁公安部OBとしての顔、生長の家講師としての顔を持つ一方、新宗連調査室とも連携のある男だった。
なお、先の『戦後宗教回想録』の中には特筆すべき内容がある。占領下において創価学会が躍進することに注目した法務府特別審査局(略称・特審)が、
「係官を学会に潜入させるなどして、資料の蒐集につとめたが、規正令違反の具体的事実をつかむことはできなかった」
と記していることである。実際、占領下における特審は絶大な権限を持ち、
「包括法人六二、被包括法人二九、法人格不明七、宗教類似団体三、修養団体三、宗教的政治団体八、その他四」
を調査し、八人の宗教家を要注意人物として扱った。この結果、「惟神連盟」「万教帰一『道のつどひ』」「槇原運命学研講所」「神皇の道本部」「天津巨」が解散を命じられた。
統治する権力者側にとって宗教団体の動向は、たえず監視下に置いておく必要があった。そのため「潜入」もおこなわれた。国家権力中枢の意図に合致しない宗教が、合法、非合法に圧迫されるのは歴史の常である。
隈部大蔵はCIC(米軍情報部)の内部資料を駆使していた
さて、隈部は昭和四十四年十二月、『創価学会・公明党の解明』という本を出版する。隈部は、この出版にあたって創価学会からの「言論弾圧」があったとしている。そして隈部は、北条浩副会長(当時)より、
「創価学会、公明党を批判する者に対しては、象がアリを潰すように全力をあげて踏み潰す」
と脅迫を受けたと、昭和四十五年に起こった「言論問題」にからめて、マスコミに話している。しかし、北条副会長はそのような脅迫的言辞を発していない。ましてや、すでにこの時、藤原弘達の『創価学会を斬る』の出版に対し創価学会が「圧迫を加えた」ことが問題化しており、このような不穏当な発言をし得る状況にはなかった。また、北条副会長の人柄からしてもあり得ない話である。
なお、これが最も重要なことだが、隈部の背景には、創価学会が「言論弾圧」などとうていできない勢力がついていたのだ。これは、昭和五十一年に刊行された『月刊ペン』における隈部の創価学会批判の記事中、連合国が日本を占領していた昭和二十二年当時のCIC(米軍情報部)の極秘内部資料を使っていることからも容易に推測できることである。これらは、とてもではないが、通常の人物が入手できる資料ではない。CICと連携している人物が隈部に情報を提供し、記事を書かせたといえる。つまり、隈部は諜報人脈の先端に位置し、創価学会に対する破壊工作を実行する男だったのだ。
今の日本で「情報工作」などというと、夜郎自大のように思われるかもしれないが、日本という国家権力の暗部に存在する情報機関は、国際軍事戦略に基づいて、見えざる活動を着実におこなっている。そこには旧軍特務機関の者たちも依然として蠢いていた。
昭和四十五年十一月二十五日、作家の三島由紀夫が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部総監部において東部方面総監・益田兼利を人質にとり、演説ののち割腹自殺をした事件は、誰もが知るところである。この時「陸上自衛隊調査学校(通称・小平学校)」の副校長であった陸将補の山本舜勝は、自著『自衛隊「影の部隊」』において、昭和四十五年十月二十一日(一〇・二一国際反戦デー)に、新左翼の武装闘争抑圧のために自衛隊が治安出動し、クーデターを起こす計画を持っていたことを明かしている。
「十月二十一日までに彼がその可能性を求め続けた『クーデター計画』を阻んだ者がいる。それは誰だったか。
一人は私である。すでに述べてきたように、私は、クーデター計画に正面から反対した。
第二に挙げられるのは、H陸将と藤原岩市である。彼らは、一度は三島の構想に理解を示しながら、最終的には自分たちが傷つくのを恐れ、うやむやにしてしまった。二階へ上げておいて梯子を外したといわれても仕方がないと思う。
そしてとどめを刺したのは、ほかならぬ『状況』である。警察機動隊の対応、対処もあったが、われわれが最大の好機と考えていた第二次安保改定を巡る学生運動、新左翼運動による都市闘争は、クーデターを実行するに十分な条件ではなかった。機は熟していなかったのである。
さらに、国際情勢も三島に味方しなかった。当時はわからなかったが、このころアメリカは、反戦の世論に押され対中政策を転換し、キッシンジャーが密かに訪中の準備を始めていた。もともとアメリカと関係の深かった陸将たちだけが、いち早くこの変化に気づいたのかもしれない」(『自衛隊「影の部隊」』)
昭和四十五年(七〇年安保)当時の自衛隊は、治安出動することにより、「クーデター」はともかくとしても、自衛隊が長年夢見ていた国民の認知を得る好機と捉えていたのだった。ところが、機動隊の装備強化により自衛隊の治安出動の機会は失われた。三島は、自ら創り出した「楯の会」に見られるような民間防衛隊を国民的規模で組織する夢を破られ、自衛隊が治安出動を果たせず「国軍」となり得ないことに絶望し、日本精神の復活に今後の日本を委ねるため割腹自殺をしたのだ。この三島の「楯の会」のメンバーに、自衛隊「小平学校」教官などが極秘でCPI(対心理作戦教程)を教え、東京の六本木や山谷などで模擬訓練をした。この「三島事件」後においても自衛隊調査隊員は、あらゆる勢力の中に潜入し、調査と工作を継続していた。
金大中拉致事件
以下、唐突な印象を受けるかもしれないが、「金大中拉致事件」について記述していく。なぜ、この事件について記すのか——。昭和四十三年九月、隈部と話していた八紘社社長の綿貫三男が登場するからである。
昭和四十八年八月八日は、熱い太陽がじりじりと照りつけていた。東京・大手町にあるパレスホテルから午前十時四十五分頃、金大中(のちに韓国大統領)は護衛の者と一緒に、九段下のホテル・グランドパレスに移動した。金大中が同ホテルに向かったのは、韓国国会議員の梁一東に会うためだった。
金大中は〈祖国統一〉を大義名分に政治活動をしてきた人物で、朴正煕大統領の圧政に抗して、リベラルな政治姿勢を取っていた。それが国民に支持され、昭和四十六年四月二十七日におこなわれた韓国大統領選挙においても、敗れたとはいえ、朴の六百三十四万票に対し、五百四十万票を得ており、その差は九十四万票しかなかった。しかもその投開票は、現役の大統領である朴に不当に操作されたものであったという。
朴は大統領に選出されたとはいえ、金の存在に深刻な危機感を持っていた。朴大統領による金への圧迫は当然、強くなった。
韓国国内で不可解な交通事故に遭い重傷を負った金は、その治療のため、昭和四十七年十月に訪日する。だが、同年十月十七日、朴大統領が非常戒厳令を発令したため、金の帰国は不可能となった。金はその後、日本、アメリカの両国で反朴大統領運動を展開する。
金の戦略は、在外韓国人の支援を背景に、非民主的な朴政権を揺さぶろうというものであった。その金がアメリカより、昭和四十八年七月十日、隠密裏に来日した。しかし、金は日本に到着した時、赤十字国際委員会駐日日本事務所が発給した身分証明書と再入国許可証しか持っておらず、羽田空港の東京空港警察署で足止めを食うことになる。金が入国を許可され、東京・新宿の京王プラザホテルに着いたのは、日付も変わった翌十一日の午前一時頃のことであった。
その後、金は東京都内に潜伏しながら、要人との会見を進めた。金の日本でのそうした動きに対し、朴大統領は日本の主権を侵すことまでして、金を抹殺し独裁体制をより強固なものにしようとした。
金がホテル・グランドパレスに入ったのは、同年八月八日の午前十一時。同ホテルの二二一二号室に滞在する梁と会見を済ませた。そして、部屋の外に出たところを、何者かの手によって二二一〇号室に連れ込まれた。そこで金は揮発性の麻酔薬を嗅がされたのである。金の証言によれば、
「頭の中が真っ黒になって意識が薄れていく」
と述べている。その後、自動車に乗せられた金は、後部座席で二人の男にはさまれ、首根っこを押さえられたままの格好で、拉致された。その後、金は、東名高速道路を経て大阪に至り、大阪より船で移動したと今日では言われている。
金は船中の様子を次のように証言している。
「両手両足を縛られ、重しをつけて船底にころがされた時、私は、自分の人生もこれで最後なのだな、と覚悟しました。仕方ないといったん諦めたすぐあとで、いや、なんとしても生きたい、と生への執着が突き上げてくる。諦めと執着と、心は何度も揺れました。(中略)
必死に祈り続けているうちに、突然、目前に赤い光がピカッと光ったのを感じたのです。
船底だから真っ暗なはずだし、顔は包帯でぐるぐる巻きにされ、その上、目のところには五枚もスコッチ・テープを貼られている。不思議なことに、そんな状態でありながら、私はまさしく光を感じました。
光った瞬間、頭上にグワーンというか、ドスーンというか、もの凄い音が聞こえた。船底にいた男たちは、
『飛行機だ!』
と叫んで、いっせいに飛び出して行く。
船底には、どうやら私一人が取り残されたようです。また続けざまに、グワーングワーンと音が聞こえる。そして、船が大きく揺れ、次いで狂ったようにスピードをあげて走り出した。(中略)
三、四十分たったころ、船底に一人の男が降りてきて、
『キム・デ・ジュン先生、アニミカ?(金大中先生ではありませんか)』
と話しかけてきました。首を縦に振ると、その男は、
『一昨年(一九七一年)の大統領選の時には、私は釜山にいて、先生に投票したのですよ』
といい、慶尚道(韓国東南部)なまりでこう続けました。
『ソンセンニム・インジェ・サルゴカッスムニダ』(先生、もう助かりそうです)
飛行機の飛来後、事態にある変化が起こったのです。
背中に縛りつけられていた板きれ(これは死人を棺桶に入れる時の、韓国風のやり方です)がはずされ、腕と足に結びつけてあった重しものぞかれる。目隠しはそのままだが、口元の包帯は取られ、両手両足の縄目もゆるめられ、私は船底から中甲板に移された」(『週刊現代』昭和五十八年二月五日号)
ただし、どこの国籍のどこに所属する飛行機が、どのような通信方法をもって、その船に、金大中殺害の中止を指示したのかまではわかっていない。ただ、確かなのは、韓国籍の飛行機が日本国内を飛行し、金を拉致した船に連絡を取ることは不可能だということである。そうした異常行動があれば、当然、航空管制官などにそのことが知られる。残されるのは、自衛隊か米軍関係の飛行機かヘリコプターということになるが、隠密裏に行動している拉致船をピンポイントで捕捉し、相手を信用させ得るだけの連絡を取るとなると、金殺害の命令を出しているKCIA(韓国中央情報部)との連携がなければ不可能である。
だが現実には、殺害命令が実行に移されることはなかった。五日後の八月十三日、ソウル市内の自宅に戻され、以後は軟禁された。
KCIAや自衛隊もかかわる
金が連れ込まれたホテル・グランドパレス二二一〇号室では、実弾七発入りの弾倉が見つかり、同時に北朝鮮の犯行を窺わせるように、北朝鮮の「白頭山」という煙草が残っていた。しかし拉致犯人たちは、そのような偽装工作とは別に、もっと重要なものを残していた。それは指紋である。
現場に残された指紋は、在日韓国大使館の金東雲一等書記官のものであった。
金がホテル・グランドパレスから姿を消した直後から、拉致されたのか、殺害されたのか、拉致されたのならどこにいるのかなど、この事件はマスメディアが大々的に報道するところとなっていたが、そこに韓国大使館員の関与が発覚し、韓国政府によって日本の主権が侵された由々しき事態であると、報道はさらに加熱した。
金は殺害されず、「金大中拉致事件」となったわけだが、この事件で、韓国大使館一等書記官である金東雲の介在とともに重大な問題となったのが、自衛隊の調査隊OBと現役の関与であった。
金東雲は、日本国内に潜伏している金大中の所在を特定するために、その調査を坪山晃三なる人物に依頼した。坪山は当時、東京・飯田橋にあった「株式会社ミリオン資料サービス」の代表取締役であった。
坪山は事件直前の昭和四十八年六月、陸上自衛隊幕僚監部二部別班の職を辞したとされている。退官時、坪山は三佐であった。なお、この二部別班は通称「ニベツ」と呼ばれ、私服での勤務をする完全な特務機関で、場所も米軍の座間基地内にあった。
金東雲から依頼を受けた坪山は、新宿区高田馬場二丁目の原田ビルの張り込みなどをする。この時張り込み要員として動いたのは江村菊男といい、中央調査隊に所属する現役の一等陸曹であった。
だが、坪山は、この張り込みでは金大中を捕捉できず、拉致事件直前の八月二日、東京・新橋にある銀座第一ホテルで、夕刊紙『内外タイムス』の石川明保記者が金大中に会うとの情報を得、その石川の協力を得ることによって、金大中を捕捉する。この時、坪山とともに金東雲一等書記官が行動していたという。
しかし、金大中の所在を追っていたのは、KCIAやその依頼を受けた自衛隊OBおよび現役だけではなかった。警察も警備のため、その所在を適時、確認していた。
警察はこの時、自衛隊の調査隊が動いていることを知っていた。したがって、金大中が拉致されたとわかった時、ミリオン資料サービスの坪山たちもまた、警察に事情聴取を受けている。
そうした警察の警備の動きとは別に、警視庁公安部外事二課アジア二係の粕田元一巡査部長が、新宿にある京王プラザホテルの宿泊者名簿を、七月二十九日に点検している。この粕田が動いていたのを、坪山の個人的な依頼によるものとしようとする世論操作が、いまだもってなされている。しかし、粕田が職権を私的に濫用したことによって処分されたとの話は、ついぞ聞かない。
KCIAと日本の探偵会社のつながり
金大中拉致事件について長々と記述したが、では、金大中拉致事件と隈部大蔵とはどのようにリンクするのか。その環は、ある男の介在により完成する。
株式会社ミリオン資料サービスは、JR飯田橋駅東口を出て、道路を渡ったすぐ前のビルの二階にあった。そのビルの一階はモツ焼き屋。「株式会社ミリオン資料サービス」という小さな表札がドアに掛かっているだけだった。
そのような設立間もない探偵会社に、どうしてKCIAから依頼があったのか。KCIAとの事前の話し合いがあって、この探偵会社が作られたのだと指摘する者も多い。同社は今も、東京駅八重洲口で探偵業を営んでいる。
この部屋は、坪山がビルの持ち主より直接、借りたものではなかった。同社社長の坪山は、もともとその部屋を借りていた綿貫三男から転貸を受けていたのである。
前述したように、綿貫は警視庁刑事で公安部外事第二課上がりの人物である。すでに述べたように、綿貫は昭和四十四年、東京・西八丁堀において、探偵会社「八紘社」を経営していた。そこに出入りしていた一人が隈部であり、同社に集まる者たちからは「先生」と呼ばれていた。
綿貫と坪山は、警察と自衛隊という別々の組織のOBでありながら、同じ情報畑の仕事にたずさわっており、極めて親密な関係にあった。そして、隈部もまた、同じ世界に生きる人物であったのだ。
私は昭和四十八年頃より、自衛隊幕僚監部第二部に属する調査隊の幹部と、あることをきっかけにつき合いをしていた。昭和五十一年、『月刊ペン』で同誌編集長の隈部大蔵やライターの室生忠(本名・小室朗人)が反創価学会記事を報じるその二、三カ月前、私はその調査隊幹部から以下のような話を聞いた。なお、この人物は二つの名前を使用していた。今もその二つの名前を覚えているが、その名前自体が偽名であろうから、書いても無駄である。よって、ここでは記さない。仮にXとしておこう。Xは私に次のように語った。
「創価学会は左傾化を強めている。そのことについて自衛隊の調査隊のみならず警察の公安関係、公安調査庁なども事態を重視している。学会の青年部のなかで新学同あがりの左翼思想の持ち主たちが重用されている。たとえば、学生部長になった津田忠昭である」(筆者註 津田は新学同議長だった)
Xはこれらの話を私に真剣に語った。私は自らが創価学会員であることを隠していなかった。Xにしてみれば、私の所属する創価学会の危機を率直に伝えたいと思ったのだろう。
「創価学会の中にはマルキョウのスリーパーがいる」(筆者註 「マルキョウ」とは日本共産党、「スリーパー」とは、組織内に長期間にわたって潜伏するスパイのこと)
私はこれについて、
「いるかもしれないが、総体を左右するものではない」
と反論した。
「マルキョウはそんなに甘くない。中枢まで影響力を伸ばしている」
「そんなバカな」
「じゃー、誰がスリーパーだか教えようか」
「ぜひ、聞きたいもんですね。教えてください」
「男子部長の野崎勲だよ」
私は吹き出してしまった。Xは私の笑いに自尊心を傷つけられたのか、憮然としてさらに追い討ちをかけようとした。
「池田会長もソ連で女を抱かされたんだ。これが創共協定の裏側にある事実だ」
私は開いた口がふさがらなかった。国民の税金を使い、このようなバカげた内容の情報収集に血道をあげている国家公務員がいることにあきれ果てた。
なお、Xはその後、「小平学校」の教官となる。「小平学校」の正式名称は「陸上自衛隊調査学校」(前出)で、東京都下・小平市喜平町にあることから、通称「小平学校」と呼ばれる。れっきとした陸上自衛隊のスパイ養成学校で、戦前の「陸軍中野学校」の延長線上にあると考えてさしつかえない諜報、謀略、防諜要員の養成機関であった(ただし、一部は通信傍受要員)。同校の第二代校長は元陸軍中野学校教官の藤原岩市といい、太平洋戦争中、マレー半島において「藤原機関」を作り、「マレーの虎」の異名で知られた特務機関長であった。その他、教官には中野学校の出身者が多く就いていた。だが、「小平学校」は平成十三年三月末、閉校となった。閉校の理由は、同校教官や出身者が三島由紀夫自決事件や金大中拉致事件に関与するなど、同校のCPI(対心理作戦教程) 教育を受けた者たちの動きがアメリカの軍事戦略と齟齬をきたし始めたことによるものと思われる。
Xは私との会話の中で、
「創価学会に偽装入信し、大石寺まで行ったことがある」
と語っていた。Xがある日、私との待ち合わせ時間に少し遅れてきた。
「いやー、集会が終わらなくてね」
私は彼の指を見た。珍しく指輪をしていた。その指輪を見て驚いた。その指輪は某教団のエリートのみがするものだった。
「こんなとこまで潜り込んでいるのか」
というのが私の偽らざる気持ちだった。Xは新左翼に武装闘争の技術的助言をおこなっていた。Xは日本共産党内の有力幹部をスパイにもしていた。これらの活動内容からして、Xが「小平学校」のCPIを受けた特務要員であったことは間違いない。彼らは、「小平学校」出身者のなかでも特別な横の連携を持ち、「青桐会」という秘密の会を結成していた。
自衛隊調査隊は隊内に「反戦自衛官」などが育たないよう、情報収集に努めると同時に、治安出動の機会を狙って、新左翼に対し火器についての技術的指導も陰でおこなっていた。
『月刊ペン』に掲載されたデマ
『月刊ペン』(発行元、月刊ペン社)は、昭和五十一年三月号、四月号において事実無根の池田会長の女性問題を報道した。筆者は同誌の編集局長である隈部大蔵である。隈部は自らの報道スタンスの公平さを強調し、同誌三月号に掲載された創価学会批判記事の書き出しに、
「私は一宗一派といった限られた立場や特定の経典の面からではなく……」
と記している。この『月刊ペン』三月号には、室生忠も、創価学会批判記事を書いているが、その記事の中に以下のような記述がある。
「『現在、公明党、学会上層部に送りこまれている代々木スリーパーは六名。その中には公明党参院議員もいる』と言明する公安関係者もいるほどだ」
室生はこう書いたのち、昭和四十五年一月十二日におこなわれた創価学会学生部幹部会の話が日本共産党にスッパ抜かれたことを記述し、
「この時の集会の会場には、現在の野崎勲男子部長もいたという」
と思わせぶりな記述をしている。
また、『同』四月号において隈部は、昭和四十九年末に創価学会と日本共産党のあいだで結ばれた協定について次のように分析している。
「それで眼を外国に向けると、池田大作が渡米のさいに買った(?)、当てがわれた(?)という金髪コールガールの話などを踏まえて、学会内部でさえ、昨年中世間をさわがせた共産党と創価学会との十年協定の背後には、女狂いの池田大作が、ソ連訪問旅行のさいに、K・G・B(ソ連秘密情報機関)の手によって仕組まれた女性関係の弱身につけこまれた国際謀略の疑いさえある、といううがった説を唱えるものもでている。事実、そうとでも解釈しないかぎり、奸智と処世術にたけたことで有名な池田大作が、どのような学会内部の複雑な事情があるにせよ、みすみす自分の面子をつぶし、会長の実権を失うような重大事態になる危険性の強い共産党との不可侵協定に応ずるはずはない、という考え方には合理性があろう」
平成二年六月十二日付の『聖教新聞』は、コスイギン首相の娘・グビシャーニ女史の話を伝えた。
「あの日、執務を終えて家に帰ってきた父が、私に言うのです。〝きょうは平凡でない非常に興味深い日本人に会ってきた。大変複雑な問題に触れながらも、話がすっきり出来てうれしかった〟と」
昭和四十九年九月十七日、コスイギン首相が、訪ソした池田会長に会ったときの印象を語ったものだ。このような国境を越えた人間的な触れ合いについても、野卑なる者たちは自らの境涯でしかものを見ることができないようである。
〝蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る〟
昭和五十一年四月十日、創価学会は、『月刊ペン』三月号、四月号における隈部の記事が、事実無根の池田会長の女性問題を報じたとして、月刊ペン社社長・原田倉治、『月刊ペン』編集局長・隈部大蔵を、名誉毀損罪で警視庁に告訴した。同年五月二十一日、隈部は警視庁捜査四課によって逮捕された。その二週間ほど前、私は隈部と銀座のパーラー・オリンピックで会った。私が『宗教評論』編集長として、隈部に取材を申し込んだのだ。約束どおり月刊ペン社の近くから電話で連絡したところ、そのパーラーを隈部が指定したのだった。
私は隈部について、『月刊ペン』の編集長、ライターとしての認識しかなかった。ただ、山崎正友から接触しておけと命じられたので、会ったのである。
その時隈部は、昭和四十五年の「言論問題」について、
「藤原弘達には自民党のお偉いさん、植村左内には民社党の塚本三郎、私には共産党の上田耕一郎がバックアップしてくれましたからね」
と語った。上田は当時、日本共産党の常任幹部会委員をしていた。私は事前に隈部、室生の手になる『月刊ペン』の記事を読んでいた。そして、その記事のベースとなっているのが自衛隊調査隊の幹部Xの話と酷似していることを認識していた。そこへこの隈部の発言である。
「共産党員が共産党の上田耕一郎のバックアップを受けてなどと言うはずがない。やはり、この男は体制側にいる男だ」
その後の隈部についての取材により、この私の勘は的中したことがわかる。いや、私がこの時直感した以上に、隈部は、より深淵な諜報の世界に生きていたのだった。しかしこの時は、ただ勘で正体の片鱗を感じたに過ぎなかった。
隈部と会った二週間後、警視庁捜査四課から『宗教評論』編集部宛てに電話が入った。
「編集長さん、いますか? 警視庁の者ですが」
「私ですが……」
「おたくで創価学会の批判記事を出してますか?」
「あなた、どうしてそんなこと、私のとこへ聞いてくるんですか?」
「ある人物があなたの名刺を持ってましてね」
私は月刊ペン社か隈部の自宅が家宅捜査されたか、あるいは隈部が逮捕までされたのか、いずれかであろうと考えた。どうあれ、ここまで公然と聞いてくるのだから、
「何か、急激な動きがあったな」
と思った。私は山崎にすぐ報告の電話を入れた。山崎はこともなげに言った。
「(隈部は)逮捕されたよ」
私は、
「そうですか」
と冷静に答えながらも腹が立った。
「告訴していた人物に自分の部下を直接、会わせるな」
私は、巻き添えになって取り調べを受けた場合のわずらわしさを思った。
隈部大蔵は大乗教団の幹部
その後、『月刊ペン』が犯した名誉毀損についての裁判がおこなわれた。記事を書いた隈部は東京地裁、東京高裁ともにプライバシーの侵害であるとして敗訴したが、最高裁は、創価学会のような大教団の最高指導者にかかわる記述には、「公益性はある」とし、東京地裁への差し戻しを命じた。その後、東京地裁および東京高裁において隈部は真実の証明をなし得ず、『月刊ペン』の記事が虚偽であると断じられ、有罪判決を受けた。そして、最高裁において判決を待っている途中の昭和六十二年二月十七日、死亡した。隈部はどの法廷においても、記事の裏づけとなる事実を提示できなかった。隈部はデマを書いたのである。
私が編集長をしていた『宗教評論』の編集部も、この裁判の過程を取材し続けていた。この時、毎回傍聴にきている男がいた。その男の名は密波羅心観。密波羅は昭和四十五年に結成された創価学会対策連合協議会(創対連)の理事で、真言宗根来派管長の末裔であった。このことは「断簡九」において記した。
この密波羅が、『宗教評論』編集部の佐藤芳彦と裁判傍聴の過程で親しくなり、隈部について隠されていた事実を述べた。
「隈部は陸軍中野学校の出身で、今でも日本の情報機関の現場において最も信頼されている古谷多津夫氏を一番尊敬している。また隈部は、巣鴨にある大乗教団の実質的な教学部長にあたるポストにある人物で、〝現代の法華経読みの第一人者〟であると自認している」
隈部は自らの「法華経」教学を大乗教団教祖・菱沼甚四郎に伝授していたのである。菱沼はもともと東京・駒込あたりで拝み屋をやっていた男だが、『月刊ペン』事件当時は、山手線巣鴨駅近くにビルを建て、いっぱしの教団の体裁をとっていた。
『宗教評論』編集部で下見ののち、同教団に隈部の件で取材を申し入れた。取材は拒否された。その直後、隈部があわてて私のところに電話を入れてきた。
「今、大乗教団に私が関係していることがわかると、裁判に不利になる。なんとか記事を止めてもらえないか」
「隈部さん、信仰を持つことはいいことです。旗幟鮮明にして闘われたほうが、闘いやすいでしょう」
と、私は隈部の記事差し止めの依頼を断り、事実のままに報じた。『宗教評論』昭和五十二年三月号にそれは掲載されたが、それは次のように始まっている。
「創価学会批判を強烈な勢いでやった『月刊ペン』の編集長、隈部大蔵氏が新興の宗教団体、大乗教団の最高幹部であることが明らかになった。
そのセンセーショナルな事実を語ったのは、長年、隈部氏と親交を結んできた密波羅心観氏だ。密波羅氏は、創価学会の撲滅運動をかつて推進していた創価学会対策連合協議会(創対連)の有力なメンバーである。また現在裁判中の隈部氏の名誉毀損事件でも強力に隈部氏を支援している。
密波羅氏によれば、隈部氏の教団内での地位は次のようなものだ。
『隈部さんは、大乗教団では、教学面のナンバーワンですよ。彼は、法華経研究では当代随一を自負していますからね。大乗教団の菱沼甚四郎管長とは、教義の研究ではむしろ対等な地位にあるといった方が、正確かもしれませんね。顧問格ですね』」
私は隈部のご都合主義にあきれたものである。私はこの時、
「自分は根も葉もない、情報機関筋から垂れ流されたデマゴギーによって創価学会の崩壊を企み、書きたい放題のウソを書いていながら、自らの真実が書かれるとなると記事差し止めの依頼とは、調子のいいことだ」
と思った。
隈部が『月刊ペン』昭和五十一年三月号の記事の冒頭において、
「私は一宗一派といった限られた立場や特定の経典の面からではなく……」
と記述していたことは、先に紹介した。これは真っ赤な偽りであったのだ。隈部は〝現代の法華経読みの第一人者〟を自認していたがゆえに、池田会長に嫉妬し、創価学会に強い怨嗟の念を持つに至ったといえる。
このようなうぬぼれの強い男は、諜報戦の最先端において、その尖兵として使われやすい。
旧日本軍情報機関の訓練を受けていた隈部大蔵
隈部は陸軍中野学校二俣分教所第三期の出身である。陸軍中野学校は、東京・中野駅前に所在していたが、昭和十九年九月、その分教所が「第三十三部隊」として静岡県磐田郡二俣町に作られた。この二俣分教所の目的は、「残置諜者」の養成にあった。
「残置諜者」とは、日本軍が撤収した地域、すなわち敵地でゲリラとして残り、敵陣営や後方を撹乱し、再び日本軍を戦況優位にならしめるための破壊工作、遊撃戦を展開しながら情報を収集する者たちのことである。
この二俣分教所出身で有名なのは、小野田寛郎少尉である。小野田は昭和四十九年まで、フィリピンのルバング島に残置諜者として潜んでいた。小野田の生存が確認された時、その任務を解くために、直属上官の元少佐・谷口義美が現地に赴き、小野田に直接、任務解除を命令した。残置諜者の任務解除は、軍規により直属上官しかできなかったのだ。この時小野田が所持していた武器弾薬は、戦後三十年近く経っていたにもかかわらず手入れが行き届き、いつでも使用可能なものであった。
隈部も小野田と同じように、残置諜者としての訓練を受けていた。
隈部が尊敬する古谷多津夫とは、戦時中、上海におけるスパイ組織である「南城機関」の機関長をしていた人物である。古谷は三十歳にならずして同機関の機関長となり、日本人、フランス人、インド人、ロシア人、中国人など約八百四十名のスパイを自らの指揮下に置いていた。そして、彼らを上海から広東省までの華南一帯に展開し、国民党、共産党への熾烈な特務戦をおこなってきた人物である。南城機関は日本海軍第三艦隊司令部付兼上海在勤海軍武官府付の特務機関であった。
この当時の上海は〈東洋の魔都〉と呼ばれ、世界四十八カ国および中国国内の各勢力が、生死を賭した諜報戦を展開していた。当然のことながら、諜報の一手段としてテロが横行した。
古谷は戦後も、日本の各諜報機関の現場において、〝神様〟と評価されていた。
昭和四十年代から五十年代にかけて、アメリカの日本における公然情報の収集分析は、米軍座間基地内の第五〇〇軍事情報部隊(五〇〇MI)でおこなわれ、報告はアメリカ国防総省の直轄下にあるDIA(国防情報局)になされていた。第五〇〇軍事情報部隊は約百名で構成され、十名程度が日系二世の米軍将校であり、残りは日本の特務機関で活動した経験のある者などだった。
その第五〇〇軍事情報部隊の活動を補助するため、陸上自衛隊幕僚監部二部別班(略称・ニベツ)二十数名余が私服で、同基地内で活動していた。これはGHQ占領下において、CIC(米軍情報部)の補助的活動を警察予備隊がおこなって以来の伝統であった。この座間基地以外にも、アメリカのCIA、CICと日本情報機関との連携は密なるものがあった。
先述した自衛隊幕僚監部第二部に所属する調査隊の幹部Xは、私にこう語ったことがある。
「米日韓台の情報機関は緊密に連携している。現場クラスの動きを自衛隊上層部が知ることはない。横田基地や座間基地には米軍の情報将校が自由に出入りし、日本の自衛隊のみならず韓国、台湾の情報関係者と情報交換している。当然、日本の自衛隊の調査隊員も、アメリカ、韓国、台湾に自由に行っている。相互にノービザで行き来しているのが実情だ」
古谷は、アメリカの安全保障に緊要な地域である極東の日韓台の情報網の中で、優れて信用された人物だった。
反創価学会キャンペーンのタイミングから読み取れること
隈部と古谷の関係を裏づけるのは、蜜波羅の証言だけではない。古谷の著書に『日本海ルート』(昭和四十一年、大光社刊)があるが、そこに序文を寄せているのは、『月刊ペン』による名誉毀損裁判で、隈部の弁護人を務めた弁護士・佐瀬昌三である。この客観的事実からも、隈部と古谷の関係が近しいことが裏づけられる。
隈部の裁判を熱心に傍聴する蜜波羅がもたらした言葉によって、隈部が古谷の影響下にあることが判明した。このことからも、隈部が創価学会批判の単行本を著した時期は、池田会長が日中国交回復提言をおこなった直後であり、『月刊ペン』で反創価学会キャンペーンをおこなったのは、「創共協定」を結んだ直後であったことが、決して偶然ではないことがわかる。
隈部は昭和四十八年一月、『秘密戦の赤き花 生きている中野学校の魂』(日新報道刊)を著している。そこで隈部は、中野学校二俣分教所での自らの体験を記すとともに、当時、フィリピン・ルバング島に潜伏していると推測され話題となっていた残置諜者・小野田少尉の救出方法を縷縷、書いている。隈部は同著に次のように本音を明かしている。
「無私の価値観を背景に、生の極限を求めて生きて生きて生き抜き、国家と民族の 礎になるという中野の思想は、『安心立命』と『無限生命』の価値観を背景に、人類の救済を目標とする仏教の思想と、ある意味で密接につながるものがあるといえよう」
この文を読めば、隈部が依然として中野学校の忠実な諜報員であり、その魂の持ち主であること、そして中野学校の思想が仏教と密接な関係にあると考えていることがよくわかる。
隈部は本の表題で「秘密戦」との言葉を使っているが、これは決して読者受けを狙った大仰なタイトルではない。陸軍中野学校において「秘密戦」は、「謀報」「謀略」「宣伝」「防諜」と定義されている。
隈部が受けた教育の中に「破壊殺傷教程」があり、その中に以下のような文がある。
「破壊による流言は伝達の都度、歪曲せられ、また内容成長す。
わが工作の結果生じたる敵国内の流言は、敵の威力心理的反応の一つの表現にして、発見せらるるものなるか、この流言たるや、一つの媒体より他の媒体に移行する瞬間ないし移行後の媒体の心理的条件を左右せられ、多くはその内容歪曲せられ、さらにその威力規模、逐次過大に伝播するを常とす」(『週刊サンケイ』昭和四十八年四月十一日臨時増刊号掲載の「陸軍中野学校破壊殺傷教程」より)
隈部は「破壊殺傷教程」というゲリラの戦法に従って、創価学会に対しデマゴーグによる「破壊」行為を展開したということができる。隈部の書いたものは、情報機関の作り出したデマによる創価学会攻撃であり、そのデマが「流言」となり「威力規模、逐次過大」に伝わることを狙ったのだ。
隈部大蔵が「隅田洋」の筆名で、東北出版から『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅』という本を出したのは、昭和四十三年の二月である。先述したように、昭和三十九年に結党された公明党は、日米安保の段階的廃棄を主張し、昭和四十二年八月には池田会長自ら沖縄の返還を提言、昭和四十三年には全国の米軍基地総点検が公明党によっておこなわれた。隈部のこの本は、このようなアメリカの意図に逆らった創価学会および公明党の動きを受けてなされたものといえる。隈部が「福島泰照」の名前で昭和四十四年十二月、展望社より『創価学会・公明党の解明』という本を出版したのも、同じ意図に基づくものであった。昭和五十一年より隈部が編集長を務めていた『月刊ペン』誌上で反創価学会キャンペーンを始めたのは、創共協定の反動であったといえる。
創共協定は、創価学会と日本共産党がイデオロギーの違いを超え、互いに相手の存在を認め合う〝共存協定〟であった。同協定は、昭和四十九年十二月二十八日に締結された。創価学会側を代表して野崎勲(総務)、日本共産党を代表して上田耕一郎(当時、常任幹部会委員)の二人が、作家の松本清張宅で何度か話し合った結果、結ばれたものである。翌昭和五十年七月九日、『読売新聞』夕刊が池田・宮本顕治(当時、日本共産党委員長)会談をスクープ。創共協定が締結されたことは、『毎日新聞』で同月十五日より池田会長と宮本委員長の対談が連載された直後の同月二十八日に公表された。だが、この協定について、日本の各情報機関が公表前に探知していたことは間違いない。
マスメディアによる創価学会批判の本質
公明党が今、政権与党となり、安保破棄から現実的路線に舵を切り直したことにより、創価学会はマスメディアの集中砲火を浴びなくなった。確かに、各マスメディアの編集会議などにおいては、これまで創価学会批判についてそれなりの正当性が語られ、記事が掲載されたのだろう。しかし、このマスメディアによる創価学会批判の多寡を年次別に見れば、大きな国家的意思がその背景にあることを窺い知ることができるのである。
無論のこと、このような政治次元での評価以外に、創価学会について、より本質的な理解が国際的に広まったことは注目されるべきである。各国創価学会員の地道な活動により、創価学会のヒューマニズムが世界各国においてより評価されつつある。
このことにより、極東の平和に緊要な位置にある日本の安全保障を創価学会が決して害するものでないとの結論を、アメリカなどの安全保障にかかわる人々が判断するに至ったのではあるまいか。
なぜここで、このようなことを記すのか。それは昭和五十一年から始まる創価学会批判キャンペーンの底流に、アメリカにとって好ましい、極東の安定を企図するという強い意思があったことを知ってもらいたいからである。創価学会は、自らが好むと好まざるとにかかわらず、国際的な情報戦という大きなエネルギーの渦中に入っていたのだ。
なお、これまで記してきたような隈部の背景について、私は山崎に報告を入れていた。山崎は昭和五十五年、創価学会により三億円恐喝既遂、五億円恐喝未遂の罪で告訴された。それ以降、山崎は隈部に接近する。隈部の裁判において、池田名誉会長の女性問題を捏造するため、正信会系の檀徒が次々と「証言」をした。だが、東京高裁はそれらの「証言」を、とうてい信用できないと退ける。
しかし、隈部の裁判でそうした奇妙な「証言」がなされたことによって、人権を回復すべき法廷は、スキャンダラスな報道をなすマスメディアの好餌とされたのだった。
「城者、城を破る」という 諺があるが、山崎は私から隈部の背景のみならず、日本宗教界の動向、マスメディアの裏面、マスメディアと他宗派の連携などについて詳細な報告を受けていた。創価学会を攻撃したがっている人脈にことごとく火をつけ、創価学会包囲網を形成していこうとしたのが山崎だった。
しかし、反創価学会のエネルギーを利用し巧みに泳ごうとした山崎は、アブクにすぎなかった。
昭和五十二年から始まる創価学会批判キャンペーンにおいて、火付け役を果たしたのは確かに山崎である。しかし、その山崎も自力でそのうねりを作ったのではない。山崎は、創価学会の破壊を企んだ国際的な情報組織あるいは国内の反創価学会勢力に利用されたのである。
そのアブクが昭和五十六年に逮捕された後、
「俺は自民党に裏切られた」
などと言っている。笑止である。深層海流の上昇力によって押し上げられた芥(あくた)が隈部ならば、その芥にとりついたアブクが山崎なのである。