四億五千万円をつかんだ山崎
山崎正友は富士宮の土建業者・日原博と癒着し、昭和五十年六月、大石寺所有の「一の竹」の土地(約十九万坪)を、大石寺より廉価で買い受けた。買ったのは山崎のダミー会社である山下商事(株)である。「一の竹」の土地は、細井日達管長が寺を建てようとしていたものの、建築許可が下りず宙に浮いていた、いわくつきの土地だった。宗門は瑕疵物件をつかまされたのである。失政の象徴ともいえるこの土地が売れるというので、細井管長は喜んだ。
この大石寺所有の遊休地に隣接する土地は、告発事件の黒幕・日原が所有していた。日原はかつてこの土地を別荘地として開発しようとしたが、こちらも許可が下りず頓挫していた。おまけに日原は資金繰りに窮し、当時、東京・赤坂のホテルニュージャパン(昭和五十七年、火災事故で死者三十三人を出した)を所有していた乗っ取り屋として名を馳せた横井英樹に金を借り、担保設定されたため、早急に処理する必要があった。告発事件前のことだが、日原がこの土地を横井に差し押さえられる前日、日本社会党系の富士宮市長・植松義忠が、同党と関係の深い郵政互助会系列の弘信商事(株)より金を借りられるよう口利きをして、日原を助けてやった経緯があった。こうして植松は、市政をスムーズに運営する必要から、市議会のボス・日原の首根っこを押さえていたのだ。その意味では、富士宮市における告発事件の真の黒幕は市長の植松であったという見方もできる。実際、植松は告発事件の前年、昭和四十七年十二月二十日、四億数千万円の金の工面を創価学会に頼んでいる。大石寺に登山する大勢の創価学会員で混雑する富士宮駅前の区画整理のために資金が必要だったのである。正本堂落慶法要の直後であった。
ともあれ、日原は山崎と協同して、直接大石寺から払い下げを受けたこの土地と自己所有の土地とを合わせ、そこに「富士岳南カントリークラブ」を作ろうとした。山崎、日原の指示を受けた平井工業(株)がその開発許可を申請すべく事前協議を富士宮市に申し出た。山崎、日原は、平井工業(株)を表にしてゴルフ場建設計画を進めようとしたのである。
昭和五十年五月十三日から同月三十日まで、池田会長はヨーロッパ、ソ連を歴訪した。その池田会長の留守の間に、山崎が創価学会にまったく知らせず、個人として細井管長に一千万円の供養をしたことが、今日、判明している。山崎がこのような大金を、当時の弁護士活動の中で正当なものとして所持していたことはあり得ない。これは、それまで山崎の生活ぶりを見てきた者たちのよく知るところである。大石寺から時価より安く土地を買い受けた日原から、山崎のもとへすでに裏金が渡っていたと見るのが自然だ。
しかし、八月十九日、静岡県の山本敬三郎知事が静岡県東部地区のゴルフ場開発許可申請の審査を凍結すると宣言した。このため山崎と日原が企てたゴルフ場建設計画は頓挫。この後、山崎は、
「全国に墓苑を作るため、本山にこういうものだというモデルを作る」
として、富士宮市に墓苑を作ることを創価学会執行部に進言した。創価学会側は、「本山が御了承されるなら」と了解。細井管長からも十月一日、了承した旨、総監・早瀬日慈を通して創価学会側に連絡が来る。日蓮正宗内では創価学会が墓苑を持つことに反対であったが、細井管長が押し切った。
山崎はこの頃、事務所兼住居として東京・新宿区曙橋近くのマンション・サンライズ四谷に起居していた。山崎がその一室で五千万円の現金を風呂敷に包み、それを枕にして寝たと周囲の者に語ったのは、この墓苑計画が進捗し始めた直後のことだった。この五千万円は形式的には、富士宮の墓苑建設の土地売買を扱った山崎のダミー会社が得た差益金である。だが実質は、工事を受注した日原から山崎にリベートとして渡されたものだ。
この富士宮市の墓苑建設計画は、富士桜自然墓地公園として実現に移される。
のちに私は、山崎からその経緯を聞くことになる。
「細井管長の心をつかまえたのは、本山より払い下げられた土地売買で浮いた金・五千万円を直々に渡したからだ。細井管長といえども、しょせん坊さんは金だよ。オレがどう言って細井管長に金を渡したと思う。そこがミソだよ。『私ごとき者が手続きの都合上、やむなく大金を手にしました。私には浄財であるこのような金を使う資格はありません。猊下、お使いください』。こう言って渡したんだよ。どうだ、うまいだろう」
山崎はこのように細井管長に取り入り、日原と組み、この墓苑建設でトンネル会社を使って差益を得たり、裏リベートをもらったりなどで、計四億五千万円を不当に手にする。この時山崎は三十九歳、当時、大学卒の初任給は約九万円であった。
山崎・日原の二人で富士宮墓苑建設計画を勝手に進める
翌昭和五十一年の七月、山崎は富士桜自然墓地公園の件について、北条浩理事長に、
「日原が墓石の石は韓国から輸入して使うと言っています」(記録文書より)
と突然話した。北条理事長は、
「そんな、勝手にやることはやめてもらいたい。石は茨城県の石を使うことになっていたんじゃないか。土地だってまだ買ったわけではないし、契約もしていないうちにそんな勝手なことをするんだったら、もう、一切、この工事はやらない」(同)
と厳しく山崎に言い渡した。これに対して山崎は、
「いまやめたら四十億かかりますよ」(同)
と、もはや抜き差しならない状態になっていることを語った。実際のところ、山崎と日原は創価学会の意思決定を待たず、墓苑建設をなし崩し的に進めていた。大韓民国の東光興発(株)に、日原造園(株)は四万基の墓石をすでに発注していたのだった。創価学会にはまったく知らせず、山崎と日原の二人で勝手に事を進めていたのである。
日原は、創価学会顧問弁護士と話し合っているのだから、
「何かの時には創価学会に損害賠償請求をすればいい」
と、たかをくくり、既成事実を積み重ねていったのだろう。施工主の最終意思確認をせず、先行して事を進めるのは、日原のよく使う手だった。
この頃の山崎は、銀座のクラブや赤坂の料亭へ連夜のように繰り出していた。山崎が一カ月に使う遊興費はすでに七百万円ほどになっていた。この狂った山崎の状況については、拙著『許されざる悪徳元弁護士 山崎正友の正体』(第三文明社刊)に詳しいので、ここでは省く。
しかし、この頃までのほぼ一年余、山崎は強気と弱気が交錯していたようだった。富士宮の墓苑で業者の日原より多額の前金を受け取ったものの、計画はうまく進まず、もし計画が頓挫すれば、業者から先にリベートを受け取ったことが裏目に出て失脚する恐れもあると考え、動揺していたものと思われる。
しかし創価学会は、山崎のように、欲望に満ちた次元ではなく、宗門および創価学会の未来のため、他宗の寺に納骨に行きいじめられている創価学会員のため、さらには大石寺の膝元である富士宮市に貢献する意味から、富士桜自然墓地公園の建設を九月二十九日の副会長会議で決定したのであった。
富士宮市には墓地三千基分が寄付され、開発にあたっては、水害を防ぐための遊水池が造られた。この地域は大雨のたびに土砂崩れなどの水害が起きていたが、墓苑建設後はそれらの被害も出なくなった。
この頃の山崎の遊蕩ぶりは、山崎が親しく接していた浜中和道によって回想されている。
「夜は麻雀や銀座のクラブで必ずといっていいほど、遊び興じる山崎氏の姿に、私はだんだんと不安になっていった。そういうことが池田会長の耳に入れば、創価学会での山崎氏の立場はますます悪くなるだけである。それにしても、よくそれだけのお金がつづくものだと心配になってきた」(浜中和道『回想録』一部抜粋)
「山崎氏が身につけ始めた成金趣味丸出しのカフス・ボタンやネクタイ・ピンなどは、すべてダイアモンドなどの高価な宝石で作られたものであった。それを創価学会本部に行ったり、部下以外の創価学会関係者に会う時は、わざわざ取り替えて安物にしていくので、〝今から創価学会本部に行くな〟と推測できたものであった。ところがこのホテル・ニュージャパンに事務所をかまえた頃になると〝もう誰にはばかるものか〟という態度に山崎氏は変化していった。
自動車もクラウンと同時に、スポーツ・タイプのベンツをいつの間にか購入していた。そして山崎氏のニュージャパンの事務所には、銀座のホステスや現役のトップ・モデルというような美女たちが頻繁に出入りするようになっていった」(同)
細井管長は〝上野村の和尚さん〟
このように山崎の遊興ぶりを示している浜中だが、今日に至って当時のことを以下のように総括している。
「山崎氏は創価学会の顧問弁護士のままであったが、気持ちは完全に池田会長から離れていた。というよりは、アブノーマルな山崎氏をはずし始めた池田会長を逆恨みし、報復を考えるようになったと見るのが正確なところだったろう。さらに厳格に見るなら、山崎氏は既にこの時、宗門と創価学会を離間させ、マッチ・ポンプをして大金を手にすること、果ては池田会長の辞任を戦略的視野に入れて、策を腹蔵していたと思われる。私はそのための宗門に対する手駒として山崎氏に利用され始めたと言える。しかし当時、私はそのことにまったく気づかなかった。私が山崎氏の奸智を身に沁みてわかるようになるまでには、恥ずかしい話だがその後、十数年の歳月を必要とするのであった」(同)
山崎はかつて、創価学会に嫌気がさした時には、
「学会の顧問弁護士をやめて、どこか田舎の簡易裁判所の裁判官になろうか」(同)
と言っていたが、アブク銭を手にしてからは、浜中に対し、
「和道さん、いよいよこれから僕も世間に打って出るよ。いつまでも学会の弁護士じゃないからね」(同)
と言い、東京・赤坂のホテル・ニュージャパンに事務所を構えた。しかし、対創価学会の姿勢は定まらず、ある時は、
「創価学会と手を切る」(同)
と言い、ある時は、
「僕は創価学会と宗門がどうなるか見届ける義務がある」(同)
と言った。そう言いながらも、山崎は浜中に、池田会長を口を極めてののしった。
「あの人は完全に狂っているよ」(同)
「仏様になったつもりなんだよ」(同)
「宗門はつぶされるかも」(同)
山崎はこれらの内容が、浜中から細井管長の直弟子および譲り弟子の集まりである妙観会(浜中はその中核メンバー)、うまくいけば細井管長にまで届けと、自らの瞋恚の思いのままに放言していたのである。
山崎は、昭和四十八年から翌四十九年にかけて富士宮で起きた正本堂の土地をめぐる告発事件において、日蓮正宗の高僧とさまざま折衝し、一信者からすれば雲上人である細井管長とも、折に触れて直接話し合っている。そのなかで山崎は、日蓮正宗首脳、なかんずく細井管長が〝上野村の和尚さん〟に過ぎないと思うようになった。そのために、その〝和尚さん〟を外護する創価学会すらバカにし始めたのだ。山崎の人生において信仰は無意味なものとなった。宗教を、自らの欲望を達成するための打出の小槌と考え始めるようになったのだ。
「坊さんはしょせん、金よ。プライドとかなんとか言ってるが、金を与えれば、どんないみじき方でも、すぐコロリだよ」
「坊さんは正本堂などという建物より現金のほうがよかったんじゃないかな。正本堂は将来、創価学会と別れるときに大きな足枷になるとしか考えてないよ。徳川幕府の参勤交代だと思ってるよ。費用を使わせられ、疲弊させられると考えている程度だよ。戒壇の大御本尊を荘厳するなんて考えは、まったくありゃしないよ。維持費がなくなるとなれば、すぐ奉安殿に大御本尊を戻すに決まってる。大御本尊を立派な建物に安置しようなんて考えは、もとよりないんだ」
日蓮正宗に対するこうした山崎の考えは、いまや日顕宗と化した日蓮正宗の現状を見れば、正鵠を射ていたものだったかもしれない。聖僧などというのは異例の存在で、ほとんどの出家はこの山崎の分析どおりだったと言わざるを得ないのだ。
僧俗離間の駒として阿部信雄の利用を図る
山崎は自らの野心を成就し、欲望を満喫するため、いよいよ本格的に和合僧団の撹乱に手をつける。僧俗の離間である。これまでは、創価学会側に宗門に対する不信感を募らせるため、北条副会長に宗門側の「情報」を折りに触れて入れてきた。だが今度は、大胆にも宗門高僧にその触手を伸ばす。山崎が僧俗離間の駒として使おうとしたのは、教学部長の阿部信雄、のちの日顕であった。その山崎の密使となったのが浜中である。 浜中は綴っている。
「約束の日に約束の場、ホテル・オークラに行くと阿部師はすでに到着していた。そこのラウンジでコーヒーを頼むと、阿部師は早く話せと言わんばかりに身を乗り出し、
『和道、なんだ。なんの話だ』
と私をせかせた。私は山崎氏の話を手帳にメモしておいたので、その手帳を見ながら一言一句、間違えないように話し始めた。途中一度、阿部師は、
『なに? 池田会長は、劉備じゃなく、曹操になると言ったんだな。間違いはないな』
と、確認するように声を出した。私は直接に自分が聞いたわけではないが、自信をもってうなずいた。阿部師は腕組みをして黙りこみ、私の話のつづきをうながした。私が話し終わると、
『その話を誰から聞いたんだ』
と尋ねてきた。私が、
『実は山崎弁護士です』
と正直に答えた。すると阿部師は、〝やはり〟とでもいうようにうなずくと、
『山崎さんか、ふーん、あの人は神通力があるからな』
と言い、再び考え込んだ。〝神通力〟という言葉が阿部師の口から出てきたことに私は驚いた。僧侶がこのような表現で人を評することは、まずありえなかった。まるで祈祷師のような阿部師の言葉に、私は思わず阿部師の顔を覗き込んだが、阿部師の表情は真剣そのものであった。私は、
『この人は本当に宗門の教学部長なんだろうか』
と怪訝に思ったものの、山崎氏を表現するに言い得て妙だと変に感心した。しかしその後の言葉は、なかなか阿部師から出てこなかった。しばらくして、
『そうか、でもな、お前、ここはじっくりとな』
阿部師の癖として、『ここはじっくりとな』という話になれば、言葉が不明瞭になるのであった。私はその言葉から、阿部師は〝打倒池田〟に立ち上がるつもりがないことを感じ取った。しかし一度、山崎氏の名を出したからには、ここで阿部師を説得しなくては、今度は山崎氏の創価学会での立場が消滅する恐れがあると思った。しかし阿部師は相槌は打つが、出す言葉は慎重だった。
『わかった。ワシもゆっくりと考えてみよう。お前もなにかわかったら必ずワシに知らせてくれ。今日の話はワシも誰にも言わないから、お前もそのつもりでいろ』
と阿部師は言った。そこで私は最後の結論として、
『もし旦那さんが立ち上がって下されば、こちらには軍師がいます。山崎さんが軍師になってくれると言っています』
と伝えた。
『そうか、山崎さんがなあ、そこまで言っているのか』
と阿部師は言い、そこで初めて自分の意見を述べたのであった。
『ワシはな、創価学会が戒壇の御本尊を否定すること、御授戒を自分たちでやり始めること、この二つさえしなかったら、あとはなにをやってもいいと思っているんだ。お前らは知らないだろうが、昔の総本山は酷かった。みんな生活ができなかったんだ。それが今では学会のお蔭で悠々と食っていけるじゃないか。〝会長本仏論〟だってな、証拠があるわけじゃないだろう。少々あったってこれは仕方がないよ』
これが阿部師の口から出た結論であった。
『ワシは、このあと忙しいから、今日はこれで失礼しよう。また今度ゆっくりメシでも食いながら話をしよう』
と言い残して帰っていった。私は創価学会や池田会長と戦うような気が阿部師にはさらさらないと感じた。その足で、ニュージャパンで待っている山崎氏に、私が感じたそのままを報告した。山崎氏は、
『なに和道さん、僕の名前を出しちゃったの阿部さんに! それはまずいな。阿部さんが池田と戦うと言ってからと僕は言ったろ』
と少々、青ざめて言った。
『でも、阿部さんのほうから〈今日の話は内緒だ〉と言ったから、間違っても阿部さんが学会に告げ口をすることはないと思いますよ』
と私が言うと、少しは山崎氏も安心したようであった。そして、
『もうあの男はダメだな。教学部長の器じゃないよ』
と山崎氏は舌を鳴らした。実際にこの話は阿部師自身の『上申書』として、山崎氏の恐喝事件の裁判に提出されたのであった」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
私はこの当時、社団法人日本宗教放送協会に毎日出勤し、『宗教評論』編集長としての業務に追われていた。山崎に会うのは月に一、二回であったから、山崎のこのような企てを知る由もなかった。『宗教評論』編集長として私は、さまざまな宗派の出家と接点を持っていた。出家という立場にある者の多くが、権威に依り高座に座り高説を説き、やんごとなき人々を時には平伏させ、大枚を手にして愉悦に浸っていることを知っていた。それでも私は、日蓮正宗の出家は違う、なかんずく法主は稀有の人であるという思いを捨て切れなかった。
しかし山崎は、私のそうした心情などにはお構いなしに、
「馬子にも衣装というが、村の和尚さんじゃ、着せるものがない」
「尊い人は御簾の後ろに隠れていただいているのが一番だ。出てこられると信者が失望する」
などとあからさまに話した。
日本宗教界の腐敗や事件をさんざん取材してきた私であったが、日蓮正宗の法主をそのように言う山崎に嫌悪感を抱いた。しかし山崎は、細井管長に対し尊崇の念を抱かず、〝村の和尚さん〟と考えていたからこそ、その後細井管長を容易に操ることができたのだと、今日になって私は思うのである。