正本堂の建っている土地は違法に取得したものだった!?
昭和四十八年六月二十一日、驚愕すべき事件が起きた。池田会長と細井日達管長が静岡県富士宮警察署に刑事告発されたのである。なんと、神聖にして侵すべからざる、「現時における事の戒壇」である正本堂が建っている土地にはもともと複数の道があり、大石寺はそれを勝手に不法占拠している、というものであった。正本堂の建っている土地のほとんどはかつて農地や山林で、その間を縦横に市道(昔からの農道)二十一路線が走っていた。罪状は、それらの道を不法に占拠・占有している道路法違反、不動産侵奪罪であった。
告発人は富士宮市議・上杉三郎、元同市議会議長・内藤寛、富士宮市半野地区の法華講員・渡辺春雄であった。
山崎正友は私ともう一人をすぐさま富士宮市に派遣した。いつものことではあるが、山崎の命令は性急であった。
「すぐ二人で『宗教放送』の名刺を持って富士宮に行き、告発の裏を探ってこい」
以来、私たちは「社団法人日本宗教放送協会」の名刺を持ち、何度も富士宮市に行くこととなった。事件を収束させるためのバックアップ情報を取るためである。
幸い、この道路についての告発は、創価学会側の弁護士数名で告発人を説得し、断念させた。七月六日には、告発人の一人で富士宮市半野地区の法華講員である渡辺が、同二十七日には、上杉、内藤の両名が告発を取り下げたため、表面上はいちおうの落着を見た。
細井管長はこの事件にいささか懲りたようで、事件が処理された直後の八月三十日、大石寺大講堂でおこなわれた第二十二回教師講習会の開講式において、出家が社会性に欠けていることを自ら告白し、次のように述べている。
「信者に対して驕慢であってはいけない。又一介の住職であるといっても、寺のことや宗門の学問のことは、充前(ママ)にわきまえているけれども、社会の生活の面においては、まことに疎いのである。だから、たまたま信者がたとえば学会の信者でも法華講の信者でも、その幹部の指導が気に入らなくて、お寺へきていろいろ生活指導を求めてくる人があるように聞いておりますが、お寺さんとしては、世間的生活指導はむずかしいのであって、出来ることではない」(『大日蓮』昭和四十八年十月号)
そう述べた上で、出家が在家を指導することは、
「在世(ママ)の生活の本当の苦しみを知らないからして、それは出来ないはずである。それを口先だけでもって指導しようという根性は今後やめてもらいたい」(同)
と断じた。さらに創価学会が仏教を社会に敷衍していることを賛嘆し、次のように言葉をつないでいる。
「学会においては御書は十分に、世間的にこれを咀しゃくし、解釈し、自由自在に解釈しております。まことにその点は立派だと思います」(同)
「だから学会の本は大いに読みなさい。もらって棚につんでおくのはよくない。
また、会長は身命を賭して働いておる。たしかにそうである。まことに感謝しなければいけない」(同)
加えて、八月三十一日の同講習会の閉講式においても、以下のような指南がなされた。
「今我々が普通の世間の僧侶からみると、十分衣食が足りております。衣食が足りて驕慢になってしまったら大変なことである。どこまでも慎重にして、そして常に謙虚の心を持ってお寺を守り、信者を大事にし、学会の人達も大変、身をすりへらして、そして宗門の為に広宣流布の為に働いておるんだから、どうか信者を大事にしていっていただきたいと思います。
今、その中心となって池田会長が一生懸命にやっておる。宗門にとっては僧俗一致が大事である。共々に仏に仕える身、仏道を修行する身という大道に立って進むべきである。それをいかなる謗法の世界から中傷・非難があったとしても、小さな声でお互いに法華弘通の人々に対し悪口を言うことはいけない」(『蓮華』昭和四十八年九月号)
細井管長は、このように述べている。だが、こうした言葉の羅列からして、同管長がどれほど深刻な反省をしたのかという疑念を持たざるを得ない。さしたる反省もないまま、創価学会にゲタを預けアッケラカンとしていたようにすら思える。
だが、告発が取り下げられたからとはいえ、事態はそれほど甘くはなく、根は相当深いものがあった。たとえば、告発人の一人であった法華講員の渡辺は、
「正本堂は学会が作ったのだから、猊下を告訴するのではなく、池田会長だけを告訴するのだと思って、告訴状に印を押した」(記録文書より)
などとうそぶくありさまであった。富士宮は依然として不穏な雰囲気だった。大石寺が元・上野村のみを地元扱いしてきたことも、他の富士宮市民の反感を買う一因となっていた。
富士宮市議に送られてきた極秘資料
私たちは告発事件が取り下げになった後も、富士宮市へ調査に入った。なかでも白眉だったのは、翌昭和四十九年二月三日(日曜日)の調査である。同日午後四時四十五分から六時まで、日原造園(株)社長で市議会議員の日原博の自宅を訪ねた。日原は次のようなことを話した。
「この問題を出したら、公明党が参議院選挙で一人も当選しないかもしれないようなことがある。証拠もそろっている」(記録文書より)
「六月の議長選挙で公明党から議長を返してもらってから、なにかやるつもりでいる。土地にからまって大変なことが出てくるかもしれない。とにかく今回の学会との約束を果たしたらもういい。確実な資料もある。六月になったら動きだす」(同)
要するに日原は、前年六月の告発事件以降、創価学会が富士宮市に四億数千万円を貸し付けるなどの地元還元を打ち出し、それを実行したが、それがある程度実行されるのを確かめた上で、さらにその次の一手を考えていたのである。しかし、日原の言う「確実な資料」がどういうものかは、まったくわからなかった。ところが、妙なことはあるもので、同日午後六時三十分から八時まで話をした市議会議員の上杉三郎より、「確実な資料」が明示された。上杉も告発人の一人である。
私たちが訪れた上杉の家は大きな庭園で囲まれていた。
取材に対して上杉は、気を引く思いもあったのだろうが、すぐさま核心部分を開示した。
「前回の告発を取り下げたのは、市長を仲介にして学会が積極的に市政に協力してくれることになったからだ」(同)
「告発以後、それは目に見えてよくなった。自由参拝もできるようになったし、案内もつく。地域協力は進んでするし、本当によくなったと思う。私は学会の功績は認めているし、宗教を愛する人間だ。非を認めてすぐに改めるという学会の態度には感心した」(同)
「五百億もする正本堂を造ったのだから、一割ぐらいは市へ落とすなら、みんな文句は言わないだろう」(同)
上杉は創価学会に対して好印象を持つようになったと話しながらも、富士宮市に五十億円くらいの寄付があってしかるべきだと考えていた。そう考える上杉は、実際にその裏でとんでもない資料を持っていた。それこそ、先に訪ねた日原が話していた「確実な資料」である。
上杉によれば、その資料は匿名で送られてきたものであるという。上杉は次のように話した。
「大石寺の用箋にタイプで打ってあるマル秘の書類で、係でなくては盗めないものだ。盗品だと思う。大石寺の境内地の土地台帳のようなものだ。六百五十筆、約五百 町歩ある。これがほとんど他人名義になっている。一目瞭然だ。
それに税務署の問題もある。山田太郎という人が土地を買った、売ったという場合、税務署が行くと、『あれは俺の物ではない。大石寺の物だ』と言う。事実は調べてみないとわからないが、問題だと思う。
この書類をもとに調査はやっていない。これがあるのを知っているのは、市長と仲間内の議員、五人だ。市長には現物は見せていない。
そのほか、大石寺の宿屋行為に問題がある。多くの人が各坊に泊まるわけだが、一つの坊で儲けた農協の貯金が、白糸村全体の貯金より大きかった例もある」(同)
そして上杉は、その「確実な資料」を私たちに見せた。風呂敷に包まれ、床の間そばの地袋(床面の袋戸棚)に入っていた。上杉はその風呂敷包みを持ち出し、私たちの座っている目の前のテーブルの上で風呂敷をほどいた。風呂敷包みの中身は、B四判の大きさで厚さ二十センチメートルもあろうかと思われる大部の書類の束だった。しかもそれは一部のようで、地袋を見るとまだ相当量の書類があった。
出された書類を見ると、それは確かに、上杉の言うように大石寺の用箋に書かれており、正本堂の土地台帳としか思えないものだった。そこには大石寺が取得した土地の地番、平米数、前所有者名、現所有者名(借名)、農地転用した年月日、大石寺の取得年月日などが一行ごとに書かれていた。膨大な分量である。私はそれを見て驚愕した。
上杉が言うとおり、「六百五十筆、約五百町歩」の土地台帳の写しそのものである。「五百町歩」といえば百五十万坪。
そのうちどれくらいの土地を大石寺は違法取得しているのだろう。考えただけでも頭がクラクラしそうな大規模な法律違反である。
上杉の背後には日原がいる。六月を過ぎると、逃れがたい告発事件が予測された。そうなれば、宗教法人大石寺の代表役員である細井管長が取調べを受け、大石寺が家宅捜索を受ける事態になることは間違いなかった。また、正本堂建設委員会委員長であった池田会長が巻添えになり、当局の取調べを受ける可能性も大であった。私たちは、三行分(三筆分)の土地についての記載事項を書き写した。
固定資産税をごまかした大石寺
私たちの報告をもとに、創価学会本部より宗門に機密書類の漏洩が伝えられた。宗門側から当時の総監で法道院(東京・池袋)主管・早瀬日慈が、本山に一部しかないという同様の書類をたずさえ創価学会本部を訪れた。それを別室で私たちが見ると、上杉が私たちに見せた書類は、まさに正本堂の土地台帳そのもののコピーに間違いなかった。私たちのとったメモとも一致する箇所があった。その書類は本山において厳秘扱いとされ、そのロッカーのカギも厳重に保管されているということである。それがなぜ流出したのか。上杉の言うとおり、宗内の者が関与しなければ不可能な犯行だった。今日では、私はこの機密漏洩は、一代坊主である細井管長と池田会長の同時失脚を狙った代々坊主側の画策、同時に次期猊座(法主の地位)を狙っての陰謀と思料するが、当時はただ狐につままれたような思いだった。農地法違反の告発がなされれば、一大社会問題となることは間違いなかった。
農地を買うことができるのは農業を営む人だけで、宗教法人が農地を直接買い、所有することはできない。農地である土地を取得しようとする場合、売買に先立ち、農家により「宅地」など他の地目に変更されていなければならない。小規模(約三百坪以下)の農地の転用であれば、富士宮市の農業委員会の許可を得ればいい。それ以上となれば県の許可が必要となる。ところが、大石寺は県の許可を取らず、農家の人の名義を借り、約三百坪以下に細分化し、延々と農地転用の手続きをし、違法に土地を取得していたのだった。のち、内部調査で判明したところによれば、昭和三十年代からこの時までに大石寺が違法に取得した土地は、およそ五十万坪に及んでいた。途方もない違法行為である。これをおこなっていたのは、大石寺から依頼されていた司法書士だった。
事態は深刻で手のほどこしようもなく、三年間の時効を待つしかない土地も多数あった。
さらに、上杉が指摘していたとおり、大石寺は税務署に対して、借名した土地について、「実は宗教法人大石寺の所有である」との文書を提出し、農地にかかる固定資産税を免れていた。つまり法を犯し、その上、税まで免れようというあつかましい魂胆だったのだ。
「何百億もご供養した挙句、罪人にされたんじゃかなわねえ。あれだけの土地を処理したのが、村の司法書士だとよ。弁護士もいないんだ。あんなもん連れて世界広布なんかできやしないよ。村なんだよ、村の寺なんだよ。かっこつけたって、どうしようもねえ。いくら学会が頑張ったところで、山がドジ踏んで、こっちが罪人とされるんだ。坊さんの意識が低すぎるんだよ」
こう話した後山崎は、弁護士として山(細井管長)の世話をするのがよほどバカバカしかったようで、鼻歌を歌い始めた。
「山寺の和尚さんが 鞠はけりたし鞠はなし 猫を紙袋に押し込んで ポンと蹴りゃ ニャンと鳴く ニャンがニャンと鳴く よーい よい」
山崎の個人的な感情は別にして、創価学会は、富士宮市への貢献をする以外に事態打開への道はないと考えた。創価学会は大石寺が本来なすべき地元とのつき合いを前面に出ておこなわなければならなくなったのだ。
実際、私たちが調査したところ、大石寺に対する地元の不満はあまりにも大きかった。月数十万の登山者がバスで素通りするだけで経済効果はゼロ。おまけに、登山バスによる排気ガスと渋滞で市民は大迷惑。しかも、大石寺は宗教法人であるため市に固定資産税も納めておらず、さらに、農地法に違反して取得した土地についても、先述したように他人名義にしながらも、実は宗教法人の所有とし同税を払っていなかったのだ。
新たな農地法違反の告発がなされようとしていた昭和四十八年夏から翌四十九年にかけて、山崎の命令で私たちは幾度か富士宮市に足を運び、富士宮市民が大石寺についてどのように思っているかを聞いて歩いた。創価学会が富士宮市民に対する種々の還元を始めていることについても市民はまるで知らず、また大石寺に関する評判は悪いものばかりであった。
「富士宮の花柳界は大石寺の坊さんによって買い占められてしまった」
「偉いのは料亭で芸者遊びをし、若いのはクラブや特殊浴場に出入りしている」
「役僧がF病院の院長と芸者を争い、勝って身受けし、沼津市に囲っている」
「正本堂建設のための買収予定地の情報が金銭で売買され、宗門役僧より不動産屋に流れ、情報料が払われた」
「正本堂が建ってうるおったのは、坊さんと一部の不動産屋だけで、我々市民は、創価学会が来るようになって迷惑しているだけ」
「役僧に金の延べ板を渡した不動産屋もいる」
しかも、大石寺の地元・富士宮市民は、さしたる歴史認識もないまま、
「北山本門寺、西山本門寺のほうが、もともと寺格が上だ。日蓮大聖人ゆかりの宝物も大石寺はあまり持っていない」だとか、「大石寺は、創価学会が出てくる前は富士宮市ではさして気にかけるような存在ではなかった」などと悪口を言う。「大石寺の坊さんは、とにかく昔から遊び好き」
などといった話まであった。
この頃、創価学会は宗門と相談し、大石寺の地元・富士宮市における貢献をなすために、具体的な行動を起こしていた。たとえば、駅前の区画整理の資金四億数千万円を貸し付けたり、公民館を建てて寄付する約束をしたりした。
だが、告発の黒幕たちは、創価学会側のそうした地元への貢献で矛を収めたわけではなかった。
日原を中心に創価学会、大石寺に対する攻撃が六月の議長選挙後に始まろうとしていた。「確実な資料」による農地法違反での告発である。限られた期日のうちに、日原らを納得させるだけの打開策を示さなければならなかった。すべては、大石寺の事務処理能力のなさに起因する。
上杉と日原、そして「確実な資料」の存在についての報告を私たちより聞いた直後、山崎は日原と直接、会う。今になって思えば、山崎はこの時、表向きは大義をかざしながらも、内心ではすでに、私欲を満たす絶好の時が来たとほくそえんでいたように思える。
確かに、富士宮市における不安要因を取り除くには、日原を押さえる必要があった。だが、それは決して日原と創価学会の顧問弁護士が癒着することを意味しているわけではない。まして、顧問弁護士が日原と謀ってトンネル会社を作り、顧問料を払っている創価学会を騙し、大金を 懐にするなどもってのほかである。だが山崎は、創価学会首脳に「地元市議を押さえる必要がある。日原も納得できるようにしよう」と主張しながら、その実、日原と癒着し、創価学会首脳の目をかすめ悪銭を手にしていくのだ。〝魚心あれば水心あり〟というが、一方の日原もなかなかのやり手で、仕事を取るためであれば、これと思った人物にはケタ外れの金をつぎ込む男であった。
弁護士も会計士もいない大石寺
正本堂の土地処理にまつわる富士宮の告発事件は、山崎と日原の癒着以外に新たな事態をも引き起こすことになった。
創価学会首脳は、三百五十一億円(それ以外に金利分約百三十二億五千万円)もの寄進をしながら、正本堂建設委員長のゆえにその会長が刑事被告人にされそうになるといった、宗門側の不手際に落胆した。このため、大石寺の会計、法人事務の整備をしなければ、また同様の事件が起きると考えた。
その状況認識は実に深刻だった。大石寺には弁護士も会計士もついておらず、給与の基準も「何人扶持」を単位とし、江戸時代なみ。食うや食わずの貧乏寺から、日本一の本堂を有するまでになるのにたったの二十年。創価学会の発展にまったくついていくことができなかったのだ。
創価学会にとって、外護すべき本丸・総本山大石寺の会計整備は焦眉の急であった。
創価学会は総本山大石寺に、正本堂会計と土地問題対策のための書類整備とその処理を正式に申し込んだ。ところが細井管長は、この創価学会側の申し出に不信感を抱く。創価学会に宗門の会計を支配されると邪推したのだった。