山崎正友との出会い
昭和四十六年四月、私は創価学会本部職員となった。新入職員の指導会が聖教新聞社の仏間でおこなわれ、池田会長(当時)が出席された。
このとき、池田会長の指導を聞きながら題目をあげている者がいた。私はその人物の四、五人横にいたが、まったく聞こえなかった。池田会長からも口が動いているのが見えた程度であっただろう。
「私の話を聞きながら題目をあげるんじゃない。拝むのは御本尊様だけだ」
池田会長は厳しく叱った。
こののち、一名の者が御書の一節について指導を求めた。それは「法華行者逢難事」についてであった。
「竜樹・天親は共に千部の論師なり、但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず、此に口伝有り、天台伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字と之を残したもう、所詮一には仏・授与したまわざるが故に、二には時機未熟の故なり、今既に時来れり四菩薩出現したまわんか日蓮此の事先ず之を知りぬ」
【現代語訳】
〈竜樹と天親はともに千部の著作のある論師であるが、権大乗の教義を説いただけで法華経の実義は内心にとどめて人には説かなかった(これには口伝がある)。天台・伝教は法華経を説いたが、本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字など三大秘法を含む深い法門は説かずに末法のために残されたのである。一つには釈尊が授与されなかったがゆえに、二つには時も機根も熟していなかったからである。今、末法に入りすでに時は来ており四菩薩も出現なされたことであろうか。日蓮はこのことを誰よりも早く知ったのである〉
質問者はこの御書を拝した後、池田会長に聞いた。
「現時、四菩薩は出現しているんでしょうか?」
それについて池田会長は、
「この御書は、日蓮大聖人が御在世におかれて、御本仏としての御確信を述べられたものです。上行菩薩、すなわち日蓮大聖人御方が、そのまま今の時代に出現されているというふうには拝すべきではない。ただし、広宣流布の途上において、上行菩薩の働きをする人、その他の菩薩の働きをそれぞれする人たちがいる、ということは言えるだろう。また、一人ひとりの人間の働きにおいても、折々にふれ四菩薩の働きがある。そのような人たちが大勢集まり、戦い、広宣流布をしていくのです」
池田会長の話を聞きながら題目をあげていた者は、真剣に聞く思いで題目をあげていたのであろうが、池田会長は寸毫たりとも誤解を生じさせぬために、厳しい叱責をされたものだと思う。さらに「法華行者逢難事」についての指導は、日蓮大聖人再誕論を明確に破したものであった。
この時、池田会長の指導を間近にした私は、その後宗門内でささやかれ始める「創価学会の本義は会長本仏論」という説には、まったく根拠がないと明言できる。
私は創価学会の外郭企業である(株)新社会研究所に配属された。所長は当時、後藤隆一(のち(財)東洋哲学研究所所長)である。同所では月刊誌『情報パック』を発行するが、その編集長には(株)潮出版社から来た秋田谷幸雄が就いた。
しかし、『情報パック』は翌昭和四十七年夏に廃刊となり、(株)新社会研究所は、同じ外郭企業である(株)第三文明社に吸収合併された。この吸収合併の法的手続きは山崎正友がおこなった。
『情報パック』編集部にいた私は余剰人員となったが、この当時起きていた事件に対処するため、急遽、山崎の仕事を手伝うことになった。山崎が創価学会顧問弁護士として動くにあたって、それを補佐する役割だった。いわゆる事件処理のために情報収集をする数名のチームに所属することになったのだ。
昭和四十七年は、正本堂が完成した年である。十月には完成奉告大法要などの盛大な儀式がおこわれた。
妙信講の「国立戒壇」論
さて、その正本堂の完成よりさかのぼること二年、昭和四十五年から妙信講(現・顕正会)が、正本堂は「本門事の戒壇堂にあらず」と主張し始めた。この妙信講の強硬な横ヤリに、細井日達管長を中心とする宗門中枢は動揺を隠せないでいた。妙信講は「国立戒壇」論を譲らず、その根拠として、
「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣 並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」
との「三大秘法抄」の教条的解釈から一歩も出ようとしなかったのである。日蓮正宗内にも、明治以降の日本社会に起きた国粋主義的な思想の潮流に影響され、「国立戒壇」論を述べる者もいた。
「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第三条)を奉じた時代にあって、〝立正安国〟をはき違えた人々が時代の寵児となった。代表的な人物として、田中智学、高山樗牛 らの名を挙げることができる。
田中智学は明治三十六年四月より翌三十七年四月まで、大阪の立正閣で「本化妙宗式目條箇」の講演をおこなったが、その講演記録が弟子たちの手によって「妙宗式目講義録」としてまとめられ、明治三十七年から同四十三年にかけて出版された。同書において田中智学は、法華経安楽行品第十四にある、
「譬如強力。転輪聖王。欲以威勢。降伏諸国。而諸小王。不順其命。時転輪王。起種種兵。而往討伐」
との一節を、
「強力の転輪聖王の、威勢を以て諸国を降伏せんと欲せんに、而も諸々の小王、其の命に順わず、時に転輪聖王、種々の兵を以て、往いて討伐す」(『日蓮主義教學大觀』第四巻)
と解釈し、
「これ常々いふが如く、『勝鬘經』の勢力折伏の義で、涅槃の有德王、仙豫國王等はその事例で、國家國力を以て正法を護り、道に順ぜざる國を討伐しても、世界の有道的統一を實現するの義で、本門戒壇の密釋である」(同)
と述べ、
「萬國の宗教家政治家國王等、この教とこの國とに敵對してその神武と教光とに敵せず、竟にことぐく歸伏して、本門の三歸戒を受くるに至ることを示されたもので、これより後は閻浮一統の春、事上寂光の風光を實現するのである」(同)
としている。日蓮大聖人の教えを国教とし、その日本の国教を武力をもってしても、世界の人々に押しつけようとしているのだ。日本鬼子!
しかし、この暴論が時の経過とともに日蓮宗各派に浸透するようになった。日蓮正宗においても同様であった。しかし、戦後、天皇が象徴となり、政教分離が憲法で謳われているのに、妙信講は「勅宣」「御教書」に固執して「国立戒壇」論を譲らず、民衆立の正本堂の意義を損なおうとした。
正本堂の意義に言いがかり
もとはといえば、正本堂の意義は、供養を募る段階で決定していた。当然のことである。昭和四十年三月二十六日、創価学会本部で細井管長、池田会長が出席し開かれた正本堂建設委員会において「正本堂御供養趣意書」の最終案が決定された。正本堂の御供養勧募にあたって発せられた同「趣意書」には、次のように書かれている。
「戒壇の大御本尊様が、いよいよ、奉安殿よりお出ましになって、正本堂に御安置されることを、正式に仰せくだされたのであります。かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります」
その御供養勧募の趣旨に則って日蓮正宗の僧俗が、昭和四十年十月九日より十二日までの四日間、全国一斉に御供養をし、正本堂設立資金三百五十五億余円が集められたのである。その内訳は、創価学会員による御供養が三百五十億六千四百三十万円、僧侶および寺族による供養が一億五千七百八十七万円、法華講による供養が三億千三百八十二万円であった(昭和四十年当時の大学卒新入社員の初任給は約二万円)。また、これらの御供養を金融機関に預けて得た利息が、のちには百三十二億四千七百六十四万円となった。
御供養の済んだ後にあっても、細井管長自らが折りに触れ、正本堂の意義について説法している。
「大聖人様がこの法華本門の戒壇を建立せられ、今まさにその本門戒壇の戒壇堂が建立しようと云うのが今年の、この十月に法華講総講頭池田先生によって発願をせられておられるのでございます」(昭和四十二年十月四日、甲府・正光寺、 『大日蓮』昭和四十四年十月号)
「また今回法華講総講頭池田先生の大発願のもとに、本門の戒壇堂とも云うべき正本堂建立が、今月の十二日に今正に着工する着工大法要が行なわれる運びになっております」(昭和四十三年九月十九日、札幌・日正寺でおこなわれた札幌開校五十周年記念法要、 『大日蓮』昭和四十四年三月号)
「此処に来る昭和四十七年、法華講総講頭、池田大作先生の大願に依って本門戒壇が将に建たんとして居るわけです」(昭和四十四年一月二十五日、総本山大化城でおこなわれた第一回寺族指導会、『蓮華』昭和四十四年四月号)
「今当に時来り、法華講総講頭池田大作先生が大願主となり、事実上の本門戒壇堂である正本堂の建立が進行中であります」(昭和四十四年四月六日、総本山でおこなわれた御虫払大法会、『大日蓮』昭和四十四年六月号)
「もとより正本堂は、本門戒壇の大御本尊安置の霊堂にして、梵天帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇也、かるが故に発願主池田大作、兼ねてより南閻浮世界各国の石を集め、妙壇の地下に埋めんと欲す」(昭和四十四年十月十二日、総本山でおこなわれた定礎式、 『大日蓮』昭和四十四年十一月号)
これら一連の細井管長の説法からも、正本堂が「本門事の戒壇堂」であるとの意義は明白であった。
妙信講・浅井親子の言いがかりに宗門中枢が動揺
ところが昭和四十五年、正本堂完成を二年後に控えて、妙信講という偏狂な法華講の一講中の横ヤリによって、その意義が変えられようとしていた。そもそも妙信講も「正本堂御供養趣意書」を読み、その発願の趣旨に賛同して、講中を挙げて供養しているのだから、今さらながらの異議申立ては何をかいわんやであった。
まして妙信講の供養の仕方には、いわく因縁があった。
妙信講は法華講連合会が発足した昭和三十八年、「妙信講は特別な講中である」として、連合会に入ることを拒んだ。そのため、妙信講は登山することができなかった。昭和三十九年七月二十九日、妙信講講頭・浅井甚兵衞は、法華講連合会の平沢益吉会長に対し、
「純信な妙信講員は権力によって登山を差しとめられたならば、血気さかっておる講員はいきり立って血を見る様な事態が起こらぬとも限らぬ」(『元妙信講問題について』所収・平沢益吉の「日記」より)
などと述べ威嚇した。このようなもめごともあって、妙信講の法華講連合会所属問題は宙に浮いていた。
正本堂に関する御供養は、法華講と創価学会とからなされたもののみを受けつけるということになっていた。したがって、法華講連合会に所属していない妙信講には、御供養をする窓口がなかったのだ。ここでまたひとしきり騒ぎが起こる。
すったもんだの挙句、妙信講は特別に日蓮正宗総監(当時)・柿沼広澄に御供養を受領してもらうことになった。その金額は約八百万円だったと言われている。
妙信講の浅井甚兵衞、昭衞親子は、創価学会員による御供養の多さに驚き、法華講としての存在感をないがしろにされたとやきもちを焼き、正本堂の意義について、機を見て騒ぎ出したにすぎない。
しかし、これに対する細井管長をはじめとする宗門の姿勢は弱腰だった。浅井親子に直接会った折など、ある時はおだて、ある時はなだめすかすという、その場しのぎの対応をおこなった。浅井親子が持論に執着し譲らぬ性癖であることを知っているがゆえであった。自分たちの意思が通らなければ、脅迫的言辞を吐くことは目に見えていた。しかし、宗門首脳は、浅井親子をおだて、なだめ、すかした言葉が、将来において妙信講の暴発を惹起させることになるという想像力に欠けていたようだ。
浅井は、おだて、なだめ、すかされた言葉を巧みに利用し、妙信講内において、あたかも自らが池田会長よりも優れており、〝法主〟の本意も〝自分の主張のとおり〟であるといったことを述べ、後戻りのできない状況になっていく。しかし細井管長並びに宗門当局は、正本堂の御供養勧募の趣旨の基本線を崩すことは、当然のことながらできなかった。
御供養を募った後に御供養の趣旨が変わったとなれば、詐欺ということになる。無論、そのような世法的道義を出すまでもなく、正本堂の意義は勧募の時より「本門事の戒壇堂」として不動のものであった。
昭和四十七年四月二十八日、細井管長が「訓諭」を発布。そこで、
「日達 この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」(一部抜粋)
と布告した。この「訓諭」をもとに六月十三日、宗務院より、
「訓諭に従わなければ解散処分に該当する。七月七日までに弁疎せよ」(趣旨)
といった通告が浅井親子のもとに行った。
六月二十二日付で浅井親子は宗務院に回答する。浅井親子は、「訓諭」は細井管長の本意ではないと断じ、逆に、弁疎の期限とされた七月七日までに訂正をしなければ、「非常手段」をとると宗務院を脅した。曰く、
「さればその時、妙信講も死すべし同時に猊下の御本意を覆う学会の暗雲もなし阿諛の御当局も除かる」(『元妙信講問題について』より)
この返書を見た総監・早瀬道応(昭和四十七年九月二十八日に能化となり、「日慈」と名乗る)と教学部長・阿部信雄(日顕)は、ともに七月七日の弁疎の期限を待たずして辞表を提出し、二人して姿を消してしまった。彼ら二名の遁走先は兵庫県の有馬温泉であった。このような状況の中、辞表は受理されず、また新たななり手もおらず、総監、教学部長の職は宙に浮いたままであった。
創価学会が前面に出て妙信講に対処
早瀬、阿部の敵前逃亡につき、正信会の浜中和道は『回想録』に次のように記している。
「後でわかったことであるが、日達上人が娘婿の菅野慈雲師らをお供に、なにかのついでに兵庫県の有馬温泉にお出かけになられた。そのホテルで菅野師と早瀬、阿部の両師はバッタリと鉢合わせをしてしまったのである。その報告を受けられた日達上人は、『こんな所に隠れていたのか。いいから呼んで来い』と笑って言われ、日達上人の前に出た両師は、面目なげにしていたという。
ともあれ早瀬、阿部の両師が雲隠れしてしまった宗門においては、その浅井氏に応対する者もいなかった。しかも両師は『混乱の責任を取り』といったことを口実に、日達上人に辞職願いを出したうえで遁走したとのことであった」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)
ただし、この文章がそのまま真実を伝えているかどうかは疑問が残る。この広い日本の中で、いくらなんでもこのような鉢合わせは考えられない。有馬温泉といえば、兵庫県である。ここは逃げ込んだ早瀬と阿部を、細井管長が迎えにいったと見るべきであろう。そこには、宗門内の馴れ合いの構造と巨大宗教団体の首脳となったことへの自覚の欠如がある。遁走の真相は、総監と教学部長が、正本堂建立の式典を半年後に控えサボタージュをするという消極的反抗だったと判断される。
細井管長にしても、早瀬と阿部の逃亡について、弾呵することのできない何ものかがあったと思える。ありていにいえば、細井管長は、早瀬と阿部に「どうぞ勝手に妙信講の件は始末してください」と開き直られても、それを罰することのできないなんらかの経緯があった。あるいは「一代坊主」(細井管長)と「代々坊主」(早瀬・阿部)との微妙な力関係があったと見るべきなのかもしれない。
なお、有馬温泉にいることがどうしてわかったのか、と疑問を呈する向きもあるかもしれないので付言しておけば、宗門の血閥、あるいは法類は複雑に入り乱れており、早瀬と阿部の行き先について細井管長が知るのはたやすいことであっただろう。
正本堂落慶法要には、各国大使館員など各界の著名人が多数、来賓として招かれている。それらの来賓を迎えるための細心の手配が創価学会側で進められているのに、細井管長、総監・早瀬、教学部長・阿部という日蓮正宗トップ三名には、そのような苦労が十全には通じていなかったと思われる。ありていにいうならば、国事に準ずるような行事が遂行されようとしているのに、一法華講中の恫喝にあわてふためき、宗門トップ三名が、その結束を乱していたのである。
ともあれ、早瀬と阿部の遁走により、宗務院は完全に機能を停止した。細井管長自らが七月一日、妙信講の指導教師である松本日仁(当時、東京・墨田区の妙縁寺住職)を大石寺に呼んだが、浅井親子は以下のような言辞の盛り込まれた脅迫文を松本に持たせて細井管長に渡し、「訓諭」を 覆そうとした。
「男子精鋭二千の 憤りは抑えがたく、仏法守護の刀杖を帯びるに至りました」(『元妙信講問題について』より)
「もし妙信講一死を賭して立つ時、流血の惨を見ること必至であります」(同)
「この時、妙信講もたおれ、同時に学会の暗雲もなく、宗務当局の奸策もなし」(同)
「但し一万の命を以って供養にかえ」(同)
松本日仁からこの脅迫文書が細井管長に渡されたとき、細井管長からは、
「訓諭は私の真意であり法主としての私の信念から出たものである」(同)
「この決定は日蓮大聖人の御遺命にいささかも違背するものではない」(同)
と記された、浅井親子宛ての書状が松本に渡された。
ところが、日蓮正宗は早瀬、阿部の遁走もあり、細井管長ひとりが立ち往生のありさま。果ては七月六日、細井管長が妙縁寺で浅井親子に会ったとき、その過ちを正すのではなく、ただ、なだめるのみに終わり、浅井親子の増長を許してしまう。
事態免れがたしと見た細井管長は八月十二日、浅井親子と再び妙縁寺で会い、厳しく指南をする。細井管長の強硬な態度を創価学会の影響によるもの大と見た浅井親子は、
「創価学会の代表と会って決着をつけたい」
と食い下がる。宗門は当事者能力を失い、創価学会と一法華講との対立構造になってしまったのである。三百五十億円の供養をしたものと、八百万円の供養をしたものが同格の立場で話し合わなければならなくなったのだ。
そもそも法華講を指導するのは宗門で、創価学会が説得の役割を担うなど、筋違いなことである。しかし創価学会には、宗門を外護するという一大命題があった。それすらも読み込んだ、計算高い浅井親子の作戦である。天下の創価学会を相手にし、〝法論〟できるということは、自らの存在を宗内外、とりわけ講中の者たちに示し得る絶好の機会だった。
とにもかくにも創価学会は妙信講を説得し、十月におこなわれる正本堂竣工に関わる諸行事を憂いなく迎える必要があった。
登山を拒否された妙信講
創価学会側代表と浅井親子との対論はその後、七回も続けられることとなる。なんとか妙信講の過激な行動計画を回避し、宗門の動揺を収め、昭和四十七年十月一日から二週間に及んだ正本堂の完成奉告法要などの諸行事を、無事挙行するに至った。この頃、山崎が私に語った話は興味深いものがある。
「細井管長は創価学会だけが大きくなると困るんだよ。妙信講を創価学会のアテ馬にしようというのが本音だよ。学会が予想外に大きくなったんで怖くなったんだよ。二十年前は食いつめてたのに感謝もせず、坊さんってのは、そんなもんだよ」
創価学会と妙信講は、正本堂建立の意義について、その後も話し合うことを約していた。ところが妙信講は、日蓮正宗として認めることのできない「国立戒壇」論の主張を機関紙誌で繰り返した。
明けて昭和四十八年五月には、宗務院より、
「国立戒壇を文書等で主張し、宗門の公式決定に背いている間は、おことわりする」(『元妙信講問題について』より)
として、妙信講は登山を拒否された。しかし、妙信講はその後もかまわず「国立戒壇」論を主張するのである。
約一年後の昭和四十九年四月九日、妙信講は再び登山を申し出たが、これに対して日蓮正宗側は、
「猊下の御意思により、〝国立戒壇を、公論であるかの如く文書等で主張する間は許さない〟」(同)
と述べ、再び登山の申請を拒否した。
この細井管長の指南に浅井親子は逆上し、
「もし無条件で登山を認めなければ、実力行使する。そうなれば何が起こるかわからないぞ」(同)
と脅した。そこで創価学会側が、具体的な話し合いのルールとスケジュールを調整し始める。
同年五月十三日午後一時二十分より七時過ぎまで、東京・茗荷谷の茗渓会館において、創価学会顧問弁護士の山崎正友と妙信講の浅井昭衞(現・顕正会会長)が会談をした。創価学会と妙信講の討論について、前もってルール作りをするのが目的であった。この時の浅井の発言を、山崎は創価学会本部に以下のように報告している。
「それにしてもお山はひどい。四十五年頃は〝浅井、よく云ってくれた、『ただし訴う』のおかげで本山の正意は守られた。国立戒壇当然だ。今いえないだけだ。今後ともよろしくたのむ〟(猊下)といったり、〝浅井さんのいうことは正しい。今、だれもいえないことを云ってくださって感謝している〟(阿部)などといって、私達をあおっておきながら、今になってなにごとだ。そんなに世間をあまくみて細工することばかりやるなら、思い知らさなくてはならないと思っている。私達のすさまじさをみせてやれば、反省するのではないかと思っている」(記録文書より)(筆者註 『ただし訴う』とは、昭和四十五年三月、浅井昭衞が書いた『「正本堂」に就き宗務御当局に糺し訴う』のこと)
「学会の人と会うのはつらい。信義と人情で、闘う決意もにぶる。できれば会いたくない。しかし逃げるわけにもいかない。
とにかく私も疲れた。もうこれ以上、しんぼうできない。しろといってもむりだ。 既に、班長会を開いて、登山停止の事実を伝え、全員、戦いの決意を固めた」(同)
「学会には何のうらみもないし、尊敬もしている。しかし、私達はすすまなくてはならない。法論を受けて立ってもらいたい」(同)
また山崎は、浅井の態度について次のように書いている。
「物ごしは、非常にていちょうで、以前とちがって、ものしずかでした」(同)
「時折、涙ぐんだり、うつむいたりしながら、こちらの話を聞いていました」(同)
ところが五月二十四日、東京・池袋の常在寺における秋谷栄之助副会長(当時)と浅井昭衞との話し合いでは、浅井が一方的に「公開討論申し入れ書」を読み上げ、それを秋谷副会長に渡した。そして浅井は次のように言った。
「どのような無茶なこと、信義を無視した、ルールを無視したと云われてもかまわない」(『元妙信講問題について』より)
「けしからんというのも一つの返事であるし、こんなもの受け取れるかというのも自由である」(同)
この公開討論については、細井管長より、
「公開討論などの対決は信徒同士として決して行ってはならない」(同)
との明確な指示が出た。
創価学会本部を襲撃
浅井親子が攻撃の的を創価学会にしぼったのは、宗門内にある反創価学会の感情を背景に、創価学会なかんずく池田会長を追い落とそうとしたからである。「断簡十一」において詳述するが、この頃、細井管長の発言にはブレがあり、五、六月には反創価学会的な発言が散見される。それに乗じての浅井親子の動きであったと見るべきだ。従って、浅井親子は創価学会攻撃という範囲であれば除名されることもないと分析していたと思われる。
昭和四十九年七月二十八日、妙信講が東京・渋谷区の明治公園で集会を開くとの情報は、七月二十日に創価学会側より庶務部長・藤本栄道に連絡されていたが、その集会の前日におこなわれた行学講習会の開講式において、細井管長は自らの非を棚に上げ、以下のように話している。
「なにも総本山が動揺しているわけではないけれども、いろいろ信徒の間で論争をおこし、又、それを本山に及ぼしてくるという思いがけない状態になっております」(『蓮華』昭和四十九年八月号)
七月二十八日、妙信講は明治公園で「立正安国野外集会」をしたのち四谷駅までデモ行進、マスコミや寺院に文書を配布したりした。この示威行為により、日蓮正宗内のゴタゴタが社会に露出することになった。
浅井親子は宗門の微妙な空気の変化を読みながら創価学会攻撃をしてきたのだが、ここにおいて決定的な過ちを犯した。妙信講の示威行動によって、細井管長も、信者間の争いとし等閑視していられる状況ではなくなり、管長の統率力が社会的に問われることとなったのである。細井管長はメンツをつぶされたことにより、妙信講処分の意思を初めて明確にした。
八月十二日、細井管長の名で妙信講はついに講中解散処分となった。
それでも妙信講の浅井親子は一縷の望みをつなぎ、攻撃の矛先を創価学会のみにしぼり続ける。かつて山崎に、
「学会の人と会うのはつらい。信義と人情で、闘う決意もにぶる」(記録文書より)
と言っておきながら、講中の勢力温存のために創価学会をターゲットにし攻撃したのだ。九月中はほぼ毎日のように、宣伝カーで創価学会本部に対し挑発行為を繰り返す。
そして、十月四日午後六時頃、妙信講青年部約七十名が創価学会本部を襲撃、突入したのである。この時の妙信講側の逆上ぶりは相当なもので、宣伝カーで創価学会本部の鉄扉を撃破するなど、横暴の限りを尽くした。このため、建造物不法侵入罪、器物損壊罪、暴行罪、礼拝所不敬罪、強要罪の現行犯で十二名が逮捕され、うち三名が起訴されたのち有罪が確定。
浅井昭衞はこの時、警視庁四谷署の取調べに対し、
「今までも暴力はいましめていたように、今後も妙信講は暴力はかたく否定して参ります。いかなる事があっても暴力をふるうことのないよう指導していくつもりですからよろしく御願い申し上げます」(『元妙信講問題について』より)
と述べている。青年たちを煽動しておきながら、自らは捕縛されないよう逃げの一手を打っていたのである。
「本門事の戒壇」建立は据え置かれたほうが好都合
妙信講に同調した八木直道(昭和四十九年十月)、松本日仁(同年十二月)の二名の坊主は擯斥処分に付された。なお、八木は日淳上人の御仲居(法主の居住する大坊をとりしきる側近中の側近)をしていたが、富士宮の要行寺に逼塞させられていた。御仲居を経験しながら、そのような貧乏寺に入った事例はない。そのため、八木は細井管長を恨んでいたのである。
松本日仁は擯斥の前、昭和四十九年十一月十八日付で妙縁寺住職を罷免させられている。松本に代わり、妙縁寺住職として久保川法章、執事として浜中和道が赴任した。
浜中は少年得度の一期生で、所化頭をしており、その弁舌と腕力を見込まれ派遣されたものだ。浜中はその後、山崎と連携を密にし、妙信講問題に当たることになる。
当然のこと、山崎のもとで事件処理にあたっていた私は、この時、浜中と面識を持つことになるのだが、山崎は、
「和道は猊下のお耳役だから、お前たちは絶対につまらないことは話すな」
と釘をさした。
今にして思えば、「猊下のお耳役」には、自分一人が操作情報を入れるため、我々に箝口令を敷いたものと思われる。
従って私は、浜中とさして話すことはなかった。
ところで、細井管長はなぜ、「本門事の戒壇」について明確なあり方を示し得なかったのであろうか。御供養勧募の時には「実質的な戒壇建立」であったのに、建立直前にして、正本堂は「現時における事の戒壇」「広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂」となり、「実質的な戒壇」の意義は未来に委ねるとした。
「本門事の戒壇」のありようは、〝血脈相承の肝心〟の部分ではなかったのか。それが明示できなかったということは、「本門事の戒壇」についての相承の内容が歳月とともに失せてしまったのであろうか。確かに、出家にとって「本門事の戒壇」の建立は、永遠に未達成の目標として、据え置かれたほうが有利であることは間違いない。どのような在家指導者が現れても、その人物を本門戒壇の「願主・弥四郎国重」と比肩させない——。このことが出家にとっては、未来永劫にわたる自己存在の保障となるのだ。
人々の信心の結晶である正本堂を、日顕は瞋恚の思いをもって平成十年、瓦礫に帰せしめた。だが、池田会長が「本門事の戒壇堂」の発願主であった史実を変えることはできない。多くの創価学会員がその発願に応じ莫大な供養をしたことも、風化することのない事実である。有形の建物はいずれ人為あるいは風雪をもって崩れていく。不壊のものは供養をなした人々の福徳である。
法華経見宝塔品第十一で現れた「宝塔」において「虚空会の儀式」がおこなわれたが、嘱累品第二十二でその宝塔も、いちおう姿を消したことになっている。しかし「霊山一会儼然未散」。本門戒壇もまた然りである。
今、日本中の創価学会の会館のみならず、世界各国のSGI施設に梵天・帝釈が来下している。「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」は、創価学会の三代会長の手により、全世界の民衆の中に息づき実相のものとなった。末法の御本仏・日蓮大聖人の説かれた教法が、今、末法の闇を確実に照らし始めている。
「龍泉寺申状」にいわく。
「住坊を奪い取り厳重の御祈祷を打ち止むるの余り悪行猶以て飽き足らず為に法華経行者の跡を削り謀案を構えて種種の不実を申し付くるの条・豈在世の調達に非ずや」
【現代語訳】
〈行智は、日秀、日弁らが住侶として職していた住坊を不法に奪い取り、住侶としてもっとも厳粛かつ重要な国家安穏の御祈祷もできなくしたうえ、さらに悪行を重ねて法華経の行者(日秀、日弁ら)の功績を抹殺し、虚偽を構えて追放処分にした。これらは仏法を破壊しようとした釈尊在世の提婆達多と同様の悪逆である〉
阿部日顕の悪行は龍泉寺の行智と変わらない。「法華経行者」たる池田名誉会長の事跡(功績)を抹殺し、「C作戦」という謀案をかまえて、種々の虚偽の理由をもって創価学会を破門した。日顕宗ならびに山崎正友らのなしたことは、釈尊在世の提婆達多とあまりに酷似していることに驚かされる。