Soka Spirit

断簡7 高笑う服役囚

山崎正友と日顕の〝復縁〟

山崎正友の部下であった梅沢十四夫は、平成三年五月頃になると、日顕らのやり方に懐疑の念を持つに至ったようだ。梅沢は同年五月一日発行の『新雑誌X』(平成三年五月号)、『同』(七月号)および『新雑誌21』(八月号、『新雑誌X』を改題)において、『福田』発行以来の反創価学会派の動向のみならず、山崎と日顕との〝復縁〟についても暴露した。

梅沢の暴露によれば、日顕は山崎に「相承なし」と罵倒されていながら、逆に山崎にあやまり、合力を頼んでいたのだった。

「一月五日に法華講のいわゆる本応寺信徒として登山する以前は、いままでは御本山の某僧侶、F御尊師、はっきり名前言いますと当時、海外部書記の福田毅道さん、この人と約二時間話したんです。その時に、『梅沢さんは山崎正友さんに連絡はとれますか』というもんですから、とろうと思えばとれますと言いましたら、その時に、『では山崎正友さんに猊下さんからのおことづけをお願いしたいんだ』というわけです。

『これから言うことをそのまま伝えていただきたい、〈あの時はウソつきと言って悪かった。かんべんして下さい。〉このように伝えてください。梅沢さんは意味が分らなくてもいいんだ。こういう風に言えば山崎正友さんは理解できるはずです。

ただしこのことは絶対に口外しないでいただきたい。私と梅沢さんの間だけにして絶対マスコミには特に言わないで頂きたい』ということでした。

それで帰ってきまして、たしか六日の日に山崎正友さんに連絡をとりました。実はこれこれこういうわけでもって、その旨を伝えた。

山崎さんはいわゆるかつての上司ですから、私のことを梅沢さんといったことは一度もない。それが『梅沢さんそれは本当かね。本当ですか』と、ていねいな言葉で二度も言った、『わかった、どうもありがとう』と、はじめて、あの人がなんていうんですか部下に対する言葉でなくて、『ありがとう』と二度も言った」(『新雑誌21』平成三年八月号)

日顕が威儀を正して自分に謝罪してきたという現実を前にして、山崎は笑いが止まらなかったことだろう。山崎は日顕らを操ろうとして、高橋公純や段勲、その他のルートを使いながら、宗門中枢が創価学会に対し悪感情を抱くような情報を意図的に流してきたのであった。このことは正信会の浜中和道(現・大分県竹田市・伝法寺住職)が著した『回想録』(平成十二年発行)によって裏づけられる。

「平成三年の正月にあった山崎氏からの電話は、まさに勝ち誇ったものであった。

『どう? 和道さん、僕の手腕は? ざまあ見ろってんだ。俺をナメたらどうなるか、池田も思い知っただろうよ。いやあ、苦しかったよ。長かったよ。ここまでもってくるのは』

私は山崎氏に訊き返した。

『今度の問題に山崎さんが噛んでるの?』

山崎氏の答えは、

『当たり前でしょう。誰があのテープを阿部さんの手元に届けたと思ってんの。誰が〈C作戦〉を授けたと思ってんの。あー、疲れたよ。やるだけやったよ、僕は』

というものであった。私は半信半疑であったが、間断なく宗門や学会に情報網を巧みに張り巡らし、阿部師に届くよう操作情報をまことしやかに流し続けていたであろう山崎氏の不気味さを知る思いであった。山崎氏は話を続けた。

『阿部さんが僕に謝ってきたよ。〈あんたは嘘つきだって言って、申し訳なかった〉ってね。今さら僕のすごさがわかったんだよ、あの男にもね。僕にひれ伏したんだよ。ハッ、ハッ、ハッ』

山崎氏は笑うと、

『じゃ、また電話しますよ』

と言って電話を切った」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)

収監前日の山崎

このとき山崎は、最高裁の判決を待つ身であった。山崎は昭和五十五年、創価学会を恐喝し、三億円既遂、五億円未遂の容疑で一審(昭和六十年三月二十六日)、二審(昭和六十三年十二月二十日)とも懲役三年の実刑を言い渡された。長年、顧問弁護士として創価学会の信任を受けながら、それを逆手にとって依頼主を恐喝したのである。

恐喝を可能にしたのは、山崎が日蓮正宗第六十六世・細井日達管長を自家薬籠中のものにしたことにある。

どうあがいても二審の判決が覆えることは考えられず、最高裁で上告棄却になればすぐさま収監され、刑に服さなければならなかったのである。その鉄格子の中に入る直前、自らの「仕掛け」がまんまと成功したのだ。山崎の狂喜は、収監前日まで続くことになる。収監は平成三年二月二十五日だったが、その四日前の二月二十一日夜、新宿近辺の住宅街にあるスナックで、正信会の浜中、亀田成文らと送別会をしている。送別会は夜九時に終わったが、山崎は浜中に対し、

「和道さん、先にホテルに行っていてください。僕は今からちょっと人に会ってきますから。僕も今日は一緒にホテルに泊まるよ。積もる話を二人でしましょうよ」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)

と言って別れ、ホテルで待っている浜中に対し電話で、

「和道さん、急用ができてね。ちょっと遅くなりそうなんだ。だから先に休んでいてください。もしかしたら、今晩、行けなくて、明日の朝になるかもしれないけど、僕が行くまで待っててね」(同)

と言い、結局、その夜、浜中のもとには来なかった。

実はこの夜、山崎は赤坂プリンスホテルで、ある女性と最後の逢瀬を楽しんだ。その女性とのつき合いは、浜中には隠されたものであった。その女性は浜中が住職をする寺の信者であったのだ。山崎はこの逢瀬の八年前より、夫あるその女性と関係し、収監前までにおよそ二千数百万円を言葉巧みに貢がせた。実はこの金について、山崎と女性の言い分はまっこうから対立している。山崎はこの金をカンパとしてもらったものと言い、女性は貸し金であると主張しているのだ。

平成八年十二月、この女性が山崎に対し貸金返済を求め裁判所に訴訟を起こしたことにより、種々の真実がわかってきた。その一つが、この二月二十一日の夜のことであった。その女性が裁判所に提出した「上申書」によれば、

「被告(筆者註 山崎のこと)は当夜、不能であったと主張していますが、それも事実に反することです」(女性の「上申書」より一部抜粋)

と、最後の逢瀬が立派に終了したことが明記されている。それは、山崎が同日の逢瀬について、

「最後の夜も、原告は、私にはげしくもとめました。しかし、露骨な描写で恐縮ですが、いくら努力してもうまくいかず、原告が、

『これから、もう会えない。私はさびしくなる。どうしようどうしよう』

とくりかえすのをきいているうち、

〝間もなく入獄しようという私を気づかう言葉が一言もなく、ただただ自分の身の上ばかりをなげいている〟

ということに興ざめし、結局中途半端で打ち切ってしまったのでした。

その後、シャワーをあびて、私は、浜中氏の待っているホテルへと直行したのでした。このことは浜中氏も記憶しているはずです」(山崎正友「陳述書」より一部抜粋)

と述べ、女性の人格を批判していることに対する反論であった。

些細なことでもウソをつく山崎

この山崎の「陳述書」に対し、女性は山崎と一夜をともにしたことを述べ、翌二月二十二日朝の模様についても、次のように詳細に書いている。

「つぎの日の朝、私は長時間の列車での移動で疲れていたせいか、午前八時頃までぐっすりと眠ってしまいました。被告はすでに起きており、

『疲れているなら、もっと休んでいけば』

と言いましたが、私は、

『ごめんなさい。もう起きるから』

と言って起き上がり、被告とホテルのレストランで一緒に朝食をとりました。食事をしている時、被告は私に、

『温泉でも行けば良かったな』

と言ってくれましたが、私は、

『元気で(刑務所から)出て来たら、また行けばいいじゃない』

と被告に言ったことを覚えております。また被告は、

『宗門と学会との間がおかしくなるように、いままで仕掛けてきた。自分が刑務所に入っている間、双方が喧嘩するようになっている。刑務所から出てきた時が楽しみだ。阿部さんとはいつでもフリーパスで会える』

とも話しておりました」(女性の「上申書」より一部抜粋)

山崎は「陳述書」において、二十一日夜のうちにシャワーを浴び、赤坂プリンスホテルから浜中の待つホテルニューオータニヘ行ったと述べ、それについて、「浜中氏も記憶しているはず」と念を押すかのような記述までしている。しかし、「浜中氏」の「記憶」は、まったく山崎の言い分に沿うものではなく、むしろ、先に引用した女性の「上申書」を裏づけるものであった。山崎はこのような些細なことでもウソを言い張るのである。

翌朝、愛人と別れた後、山崎はホテルニューオータニで待っている浜中のもとに行っている。

「『いやあ、昨日は参ったよ。週刊誌の記者と会っててね。僕のいない間のことなんかを、ずっと打ち合わせていたんだよ。さすがに眠たいよ』

山崎氏はそう言いながら、背広の内ポケットをさぐると、茶封筒を取り出し、その中に入っていた札束を一枚、一枚、数え始めた。指をなめながら一万円札を数えている山崎氏の姿を、私は不可解な気持ちで眺めていた。

お金を数え終わると、山崎氏は初めて私に気がついたように、

『この前、週刊誌に僕が記事を書いた原稿料だよ。結構、いい金になるんだよ』

と言った」(浜中和道『回想録』より一部抜粋)

山崎の数えていたこの金が「原稿料」であったとは思いがたい。おそらくは、貢がせていた女性からの餞別であろう。

獄中から外にいる人間を操ろうとする山崎

この時、山崎は浜中に、次のような重大な告白をする。

「『これは和道さんだから言うけどね。実はね、僕は阿部さんの血脈相承を認めちゃったんだよ』

山崎氏は唐突に話を切り出した。私が、

『えっ?』

と訊き直すと、山崎氏は私を正面に見据えて、

『だからね。僕は学会を倒すために、阿部の 懐に飛び込んだんだよ。そうしたからこそ、今、学会と宗門が喧嘩別れしたんだよ。わかるでしょう?』

と言った。私は首を縦に振った。

『勿論、僕は今度、原田さんにお世話になるから、善福寺の信者だよ。正信会だよ。でも正信会の信者であっても、日蓮正宗の信者には変わりないでしょう。その日蓮正宗の敵の学会を倒すために、今は阿部さんの猊座の権威が必要なんだよ。僕は、正信会はどんなことがあっても宗門に復帰すべきだと思うんですよ。このままじゃ、立ち腐れだもんね。それで正信会のために、共通の敵の学会と戦うために、阿部さんと連携したんだよ。そしたら阿部さんは素直に〈俺が悪かった。池田に騙されていた〉って、僕に謝って、〈正信会に悪いことをした〉って言ってきたんですよ。だから僕も阿部さんを許す気になったんですよ。そしたらね、阿部さんから、〈頼むから、俺に血脈相承があったってことを認めてくれ〉って言ってきたんだよ』

私は口をはさんだ。

『だって阿部さんに相承がないのは事実じゃない』

山崎氏は手を振りながら言葉を続けた。

『それはそうかも知れないけどさ。相承があってもなくっても、もう猊下としての既成事実が出来上がってるんだから、しょうがないじゃない。今、それを論じるんじゃなくて、どうすれば池田を潰せるかってことを考えるのが先でしょう。僕の役目はそれであって、あとは正信会の皆さんが宗門に復帰してから、宗内の問題として整理すればいいでしょう。僕は僕の役目、皆さんは皆さんの役目を果たしましょうよ』」(同)

山崎らしい弁明である。行動が先。理屈は後。行動のもとは欲望。理屈は欲望を隠すためのものなのである。

ここで山崎は二通の白い封筒を浜中に渡す。

「『これはね、万が一、僕が刑務所に入っている間にね、もし僕の許可なく勝手に阿部さんが、〈山崎が、自分に血脈相承があったことを認めた〉って言い出した時に、これを開いてオープンにしてください。僕が刑務所に入っている時に、そのことを許可する場合は、必ず何らかの方法で和道さんに連絡しますから』

と言うと、もう一通のほうを手に持った。

『そして、これは僕が刑務所に入っている間に正信会に宗門復帰の呼びかけがあった時に開封して、みんなに見せてください。こっちには丸印しておきますから。絶対、間違わないでよ。間違ったら、大変なことになるからね。もし片方を開けるようなことがあったら、片方を焼いてください。それで僕が出るまでなにもなかったら、両方とも僕に返すか、燃やしてください。これは和道さんを信用してるからこそ頼むんですよ。どうかくれぐれも、今、言ったことを忘れないでね』

山崎氏はそう言うと、私の返事を聞かずに、二通を重ねて私の膝の上に置いた」(同)

山崎は獄中から、外にいる人間を操ろうとしていたのだ。手錠をはめられていても、舌先三寸で人を動かせるものらしい。ただし、山崎の場合である。

支離滅裂な女性関係

山崎は浜中に、獄中にいる自分と日顕との極秘の「パイプ」役二名の名を明かす。一人は日蓮正宗海外部書記をしていた福田毅道。そしてもう一人は、反創価学会ライターの段勲である。段は「断簡二」にも示したとおり、本応寺住職・高橋公純の弟で、二カ月前に日顕と「目通り」をした人物である。

「『段と福田が僕と宗門とのパイプなんだよ。その二人に和道さんの名前は教えてあるから、なにかあったら連絡を取り合ってください。あいつらだったら安心して何でも話せるから。ちょっと、あいつらの直通の電話番号を教えておくから』

と言うと、ベッド脇のメモ用紙に福田師と段氏の電話番号を書きつけ、私に手渡した。

『さあ、これで安心して刑務所に行けるよ。和道さん、宗門と学会はこれからますますドンパチやるよ。マスコミも学会を徹底してやりますよ。僕があちこち仕掛けといたからね。僕がいない間も、皆さん、退屈せずに済みますよ。原田さんも僕のことを〈任しておけ〉って約束してくれたからね。ゆっくり刑務所で療養しとくよ。出てきてからが、また勝負だからね。三年って言うけど、早ければ二年ぐらいで出てきますよ。それじゃ、和道さん、元気でね。出てきたら一番、真っ先に連絡します』

呆気に取られる私に手を差し出した。私は山崎氏が収監されるまで見送るつもりであった。私がそう申し出ると、山崎氏は、

『そのお気持ちだけで充分ですよ。でも僕は、このあとも刑務所にいる間の布石のためにいろんな人と会わなくちゃならないんですよ。ですから、今回はこれでお別れしましょう。出てきたら竹田にまたお伺いしますよ』

と言った。私は、

『それじゃ、そうさせてもらうよ。でもホントに身体に気をつけてね。それから刑務所にいる間は宗門とか学会とか全部、忘れていたほうがいいよ。中にいてイライラすると身体に悪いからね。何かしようにもしようがないというのが、一番、身体に堪えるよ。僕も御本尊に山崎さんの健康をお願いするよ。それじや、これで失礼します。出てきたら連絡してね』

そう言いながら、握手に応じた。

部屋を出ようと背を向けた私に、

『ああ、愉快! 愉快! これから学会は面白いことになるよ』

と、大きな声で山崎氏は言った。私は振り向いて、山崎氏に無言で微笑みを返した。

伝法寺に帰った私は、山崎氏から預かった二通の文書と山崎氏が私に話した内容を記し、正信会議長・渡辺広済師に郵送した。そして福田師と段氏の電話番号を破り捨てた。山崎氏のメッセンジャーを務めるには、私は冷め過ぎていた。私は友人としてしか山崎氏とつき合うつもりはなかった。山崎氏には宗門、学会、そして正信会、このすべてからこの際、引退してもらいたかった」(同)

この時浜中は夢想だにしていなかったと思えるが、後年、浜中の別れた妻が山崎と結婚することになる。山崎に二千数百万円を貢がされた女性も、浜中も、現在では、山崎は浜中の女房と離婚前から男女の関係にあったと考えているようだ。浜中の女房も旧姓で山崎に送金していた。そうなると山崎は、住職夫人と女性信者の金と肉体をものにしていたことになる。山崎は当時、その女性に浜中の女房との関係を追及されたとき、

「友だちの女房とできることはよくあることだ」(女性の「上申書」より一部抜粋)

と開き直っている。

昭和六十三年に浜中と離婚した女性は、のち、福岡市博多区諸岡にアパートを借りる。その女性のもとに、刑期を終えて出獄した山崎が、東京よりわざわざ通っていた。

山崎はその女性と平成八年二月に結婚する。ちなみに、その女性は浜中と結婚する前に、山崎の法律事務所に勤めていたことがある。

葬儀で坊主をボイコットし始めた学会員

それはさておき、山崎は収監前日の二月二十四日にあっても、勝ち誇り、高揚した気分でいた。その日、山崎は部下の一人に次のように話した。

「あのね、要するにね、ウジ虫みたいな北林だのね、ウジ虫みたいなのがね、ゴチャゴチャ、ゴチャゴチャやってるけど、そんなことなんの効き目もないの。もう、山の方針は決まってるし。ねっ、近いうちに大きな処分がどんどん出るだろうし」

「宗会はないって。なんで宗会が必要なの。だから、そういうことを言うのはね、まったく、そのなんて言うか、山の宗制宗規も知らないね、そういう山の構造を知らない人たちがゴチャゴチャ、ゴチャゴチャ言うとるの。だって十二月のときは宗規を改正した訳でしょう。規則を改正だから、宗会の召集が必要なの。処分だけだったら、宗会、必要ないんです。僕は本山の宗制宗規は、もうね、わざわざ改正とか、そういうときに携わってきたから、よく、知ってんの。必要ないんだよ。重役会とね、宗務院で決めればいいわけだから。もう、流れは決まってんだからね」

「そういうね、いわゆる北林ら。彼らは、学会は潰れることはねえ、あんな大きなものはどんなことがあっても、潰れることはねえ、と思ってそっちにくっついたんでしょう。食いっぱぐれはねえと思ってやってるけど、ねっ、もう、食いっぱぐれるのは目に見えてんの、先が」

「池田教になって、もつわけないじゃないですか。池田教もクソも、とにかく本山から全部、追放されるんだから、しょうがないでしょうが。外で何しようが勝手だけど」

「猊下が、猊下がってやってきたのよ。その猊下にやられたんだから、会員は崩れるに決まってるじゃない。今の半分になったら公明党なんか全滅でしょうが。金だって入らんでしょうが。維持できますか? そうなったら『X』だとか、『特ダネ』だとか、北林だとか、そんなね。ウジ虫にね、くれてやる金なんかなくなるに決まってるじゃない。葬式屋もあがったりですよ、北林も。一言でいうと。宗門のお寺はどこも相手してくんないから。もう、知れわたってんだから、あいつがやったってことは」

「収監されることなんかどうでもないっつうの。そんなことは、もう、とっくの昔から計算済みだって。折込済みで、しかも、それをちゃんと、それもね、利用して、俺は戦略立ててんだから。中に入ってるあいだに、何が起こったって、オレの責任じゃねーんだよ。中に入ってるあいだにね、どんな事件が起ころうと、わしゃ、関係ねーってことでしょう」

「とことんまで日顕さんがやっつけるよ」

「ほっときゃいいの。偉い人が生きたり死んだりしようとね。そりゃ、オレの知ったこっちゃねーつうの。オレは牢屋、入ってんだから」

「ウジ虫どもがね、グチャグチャ、グチャグチャその程度の脳ミソしかねえーのよ。北林にせーね、その程度の脳ミソ、その程度のメシしか食えねえ連中だから、そんなことやってんだけど、まー、バカっつうか、しょうがない。相手にしてもいないでしょう、取り合ってもいないでしょう。そういうゴミどもを相手しないっつうの」

「一年、二年過ぎて、あとで再審請求で無罪になったらそれでいいじゃない。そうじゃなくても、出て、いろんなことがあった後で、なんの俺の活動の妨げにならないんだもん。俺のやったこと、全部、正しいことになっちゃうんだから。そうでしょう。かえって箔がつくだけ」

「ねっ、先を見なきゃダメだよ、先を。ほっときゃいいの。もう、終わったのよ、もう」

「もう、終わったの。戦争はもう、終わったの。少し療養しなきゃダメなのよ。刑務所の中の病院が一番いいのよ、うるさくなくて。もう、療養することだけが俺の仕事だから。もう、終わったのよ。結果が出る頃には、戦争はもうね、結果が出る何カ月も前に、もう、全部、終わっちゃうの。黙って見てりゃいいのよ」

「自民党についてやるなら、まだいいよ。潰れないんだから。創価学会についてやってね、先が見えてんじゃない。そういう先の読めないバカがね、本当にそういう点では、小細工がきいて、頭がよさそうで、頭が悪いの、あいつら。この話は北林に聞かせてやったほうがいいよ、フフ」

かくも山崎は勝ち誇っていた。しかし、これが引かれ者の小唄となるのに数カ月も経たなかった。同年春より全国各地で、葬儀においてすら僧侶のボイコットがおこなわれるようになってきた。

全国の創価学会員は、池田名誉会長や創価学会の悪口を言うような坊主を呼び、肉親や血族の葬儀をしたくなくなったのである。僧衣を着ているだけで布教力のない葬式仏教の主らは哀れであった。存在を全否定され、糧道すらも絶たれたのである。

山崎も刑務所を療養所程度に考え入獄したが、獄の中で泣いていた。

「本来なら、八王子の医療刑務所で寝て暮らしてもおかしくない病状である。それが、どんな政治的圧力か判断か知らないが、通常の刑務所に送られてしまった。四ヵ月近い入院治療の後、スパルタ式の教育訓練をほどこされ、身体はむくみ、息もたえだえになった。

これ以上きつい仕事をしたら、私は確実に死ぬ。そうとわかって無理強いするなら、それは自由刑であるべき懲役ではなくて、事実上生命刑たる死刑に等しい」(山崎正友著『平成獄中見聞録』より一部抜粋)

「冷たいコンクリートの部屋で、鉄窓のすきまから吹き込む那須降ろしにふるえ、朝、十センチ以上も盛り上がった霜柱を見ながら、手袋もはめずに指を伸ばして行進させられたら、風邪をひかぬ方がどうかしている。東京より、確実に五度以上気温の低いところで、満足な防寒衣も着せられず、舎房の暖房もほとんどないに近い。食事も、減塩、タンパク制限といった療養食など望むべくもない。そういう状態で、風邪をひいて熱を出しても、痛風発作で足がうずいても、まず休むということは許されない」(同)

人生、思いどおりにいかないことは、ままある。