近いうちに池田を切るから、よろしく頼む」
私が河辺慈篤と会っていた同じ平成二年十二月二十五日の午後一時より、およそ一時間半近くにわたり、押木二郎、高橋公純、段勲ら五名が日蓮正宗総本山大石寺の奥の院ともいえる内事部の第三談話室で、阿部日顕と会っていた。無論、話題の核心は対創価学会攻撃である。
のち、日顕が前日の二十四日夜に、全国の反創価学会の活動家らに直接電話を入れていたことが判明している。頼りにもならぬ不満分子を重要な人材と勘違いしての妄動である。
「近いうちに池田を切るから、よろしく頼む」
と、日顕は本心を開陳しながらも、その話の最後には、
「私が電話をしてきたことは、二十八日まで、絶対に内密にしておいてくれ」
といずれの者にも念を押した。
池田名誉会長に対し、瞋恚の炎を燃やす日顕にとっては、この広宣流布史上未曾有の大功労者を悪しざまに言う者たちが、頼もしく思えたのであろう。〝法主〟の地位にありながら、広宣流布を忘却した哀れな老人の浅知恵がそこにあった。
「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」(通称「お尋ね」文書)という詰問状を、日蓮正宗は去る十二月十三日の連絡会議の席で創価学会会長・秋谷栄之助に手渡そうとしたが、秋谷会長は、
「出所不明の文書を元とした文書は受け取ることができない」
と、受領を拒否した。日蓮正宗は改めて「厳密な調査」をおこなったとし、十二月十六日にこの「お尋ね」文書を創価学会本部に郵送し、文書での回答期限を一週間以内と区切った。この「お尋ね」文書の中には、先述したように、ベートーヴェンの第九を外道礼賛としたり、平成二年十一月十六日の本部幹部会における池田名誉会長の、
「工夫して折伏するのがないでしょう、ね。日蓮正宗でいなかったんですよ。それを学会がやってるから、学会を絶対にすばらしい、ということであります」
「ただ……、真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう」
といった発言を、
「このように、正義をそのまま正直に述べる大聖人の教法と人格が折伏出来ない理由になるというのは、大聖人の人格と教法を否定する重大な仏法違背」
だと決めつけている。ただし、これは宗門側の録音テープの反訳の間違いで、
「工夫して折伏する以外ないでしょう。ね、日淳上人が一番よくわかっていますよ。それを学会がやってるから、学会は絶対にすばらしい、ということであります」
「ただ朝起きて、『真言亡国・禅天魔』。(笑い)法を下げるだけでしょう」
が正しい。宗門側は平成三年一月になって、録音テープの反訳を「間違いだった」と認めるが、池田名誉会長の発言を問題にすることは、もとより口実だけのことだったのだから、既定方針の創価学会攻撃を正当化するための口実が間違っていたとしても、振りかざした斧は今さらどうにも止まりようがなかった。
さて、その「お尋ね」文書に対する創価学会側からの返答は、十二月二十三日午後に大石寺に届いた。
その返答の中には、局面打開のために話し合いをしたい旨が書かれており、あわせて次のような指摘もなされていた。
「猊下は、七月十七日夜、東京・常泉寺において開かれた宗務院・学会連絡会議での学会側・秋谷並びに副会長・八尋(筆者註 頼雄)の発言に対して、恐れ多いことですが、大声をあげて、立ち上がらんばかりの剣幕で『法主の発言を封じた。憍慢だ! 憍慢謗法だ!』と怒鳴られ、叱責されました」
「再び、七月二十一日のお目通りの砌—
猊下は、秋谷に前記の『憍慢謗法』と大声で怒鳴られたあと、更に激昂され、名誉会長に『あんたにもいっておきたいことがある。懲罰にかけるから』と激しい口調で、早口で興奮して語られました」
法主という一宗の長としては不適切な日顕の言動が、創価学会側より逆に問題にされ、宗門側は創価学会攻撃の出鼻をくじかれたのであった。
日顕が押木二郎の檀徒作りを認める
押木二郎、高橋公純、段勲らが日顕に会った平成二年十二月二十五日は、先の創価学会の返答に対する打ち合わせ等で日顕は忙殺されていた。
日顕はすでに、池田名誉会長を総講頭職から罷免するとの決断をしていたが、内心、忸怩たるものがあった。実際のところ、今打ち合わせをしている宗務院の役僧にしても、最後の土壇場に来て弱腰になり、創価学会側につくかもしれないと見、それに対しても日顕は頭を悩ませていたのである。日顕は、もし宗務院が自分の意に逆らい、池田名誉会長への処断、創価学会への強硬策を支持しなければ、日蓮正宗より大石寺が離脱する秘策すら考えていた。
かつて東本願寺では、門首と宗議会が対立し、宗議会が選出した執行機関である内局と門首との間に対立が生まれ、その泥沼化した抗争は新聞の社会面すらもにぎわすこととなった。日顕はその東本願寺のありさまを他山の石とし、もし宗務院や宗会が、法主たる日顕の命に従わないとなれば、宗教法人大石寺が包括法人たる日蓮正宗から離脱することすらも考えていたのである。
日顕はこの日、「目通り」にきた僧らに、
「これからはスキ、クワをもってもしのぐという覚悟でいきなさい」
などと激励をしていたが、その実、戦々恐々とした思いで、あたりに猜疑の眼を光らせていた。そのため、自らを無欲の者であることを示し、権勢欲におぼれた者がついてくるように、
「一連のことが終われば、猊座を降りる」
と洩らしたりもしていた。芸も細かく、宗内の人心を自らの野心に絡めとろうとしていたのだ。
内事部第三談話室で、日顕はまず本応寺住職・高橋より段を紹介され、続いて押木ほか一名を紹介された。押木、高橋、段らに会った日顕は、およそ次のようなことを話した。
「開創七百年の時、学会は総坊ぐらいしか供養してない」
「あさって、二十七日の宗会で池田を総講頭から罷免する」
「総講頭を辞任すると、本来なら自動的に名誉総講頭になるのだが、宗規を改正してそれすらなれないようにする」
「池田を処分し、創価学会を破門にすれば、その残務処理に二年はかかる」
「池田を罷免して、池田が『すみませんでした』と言ってきたら、『新宿の大願寺の一信徒となるならば許してやる』となるが、それ以外は認めない。それは呑めない話だから、学会側は拒否し、池田ともども、創価学会は破門となる」
「創価学会との争いになれば、訴訟も考えられる。その時には押木さん、あんた証人になってくれるか」
「段さんもしっかり書いてください」
これに対し押木は、創価学会への組織切り崩しを宗門の指南によりおこないたいとし、二日前の二十三日に仲間うちで決議したとする、「外護の会結成趣意書」と題した文書を見せた。それには、
「信徒の責務である総本山の外護を最大の目的とする。また一人でも多くの学会員を池田大作および池田教から守ることが、外護に通じることを確信する」
「日蓮正宗・創価学会に浸透した池田大作の誤りと池田信仰を糾し、是正する」
といったことが書かれていた。
この押木の決意表明に、日顕は喜びを隠せなかった。そして法主自らが、長年にわたり宗門に貢献してきた創価学会組織の切り崩しを命じたのである。
日顕は彼らを前にして、得意げに話した。
「一月二日に池田が登山したら、一信徒として扱う。居士衣も着ることを許さないし、特別な席もしつらえない。池田と創価学会には厳しい条件を突きつける。呑めなきゃ破門だ」
「一月十五日までに決着をつけて、二月には戒壇の大御本尊を正本堂から奉安殿に移したい」
とも語った。しかし、これについては段が、
「それじゃあ、妙信講の主張と同じじゃないですか」
と、逆に〝法主〟をたしなめる場面すらあった。日顕は、
「正本堂を維持するのには金がかかる。維持費が一日何十万もかかる」
と言い訳がましいことを言った。自らの血脈を否定したルポライターにより、大御本尊遷座をたしなめられ、それに抗弁するにあたって教義を用いることすらできず、「維持費」を口にすることしかできなかったのである。日顕にしても、池田名誉会長が発願主となり建立された正本堂において、しかも自分に相承をなさなかった細井日達管長が導師をしてきた同じ席で導師をするのは我慢ができない、という本音を明かすことはできなかったであろう。
そして日顕は胸算用を明かした。
「池田を切って、二百万の学会員のうち、一割の二十万人が山につけばいい」
最後に日顕は、これまで創価学会と協調路線をとり、事ここに至って反創価学会に豹変するのが照れくさかったのか、
「池田さんはどうも、私が教学部長だったとき、私を懐柔しようとしてたみたいなんですねえ。池田さんを信用していたのですが」
などととぼけてみせ、とどのつまりは、池田名誉会長の人格を非難し、池田名誉会長の一身に、今回の事変の責任があるかのように言いつのった。
日顕と押木、高橋、段らの面談は午後二時半頃に終わった。