日顕の懐刀・河辺慈篤
平成二年——。暮れも押し迫った十二月十日前後、私は創価学会本部を訪ねた。そこで聞いた話は、
「今、創価学会側の誰が連絡しても宗門首脳は会おうとしない。宗門首脳が考えていることがさっぱりわからない」
というものだった。私は慄然とした。創価学会と日蓮正宗との間にこれまでにない緊張感が漂っていることは、私なりに感じ取ってはいたが、それにしても、そうした事態にまで至っていようとは思っていなかった。
「ここは、法主・阿部日顕の懐刀である河辺慈篤と会わなければならないだろう」
と、私は考えた。創価学会首脳と宗門首脳との関係が意思の疎通を欠き、断絶している。しかも宗門側は創価学会側の呼びかけにもかかわらず、一切会おうとしない。このことは、両者の関係が極限状態にあることを示しているばかりか、宗門側がなんらかの強烈な意図をもって事を進めていることを示唆している。河辺に会ってじかに確認する必要がある。私は差し迫った気持ちで、河辺が住職を務める札幌・日正寺に電話を入れた。
河辺とは十数年来のつき合いがあった。これまでも何度か忌憚のない意見を交換してきた間柄である。宗門側の本音の部分を探るには、河辺と会うのが一番であるし、日顕に最も影響力のある人物であるから、日顕がなんらかの途方もない挙に出ようとしているのなら、それを止める唯一の手立てになるとも考えた。
日正寺に二、三回、電話をした。しかし、いつもなら河辺からすぐかかってくるはずの電話が、この時はかかってこない。その後も数回電話をしたが、音沙汰なし。どうやら河辺は日正寺にいないようで、電話での連絡はあきらめることにした。ところが、それから数日経った、たぶん十二月二十日前であったと思うが、河辺から電話があった。
「北林さん、何度か電話もらって悪いね。羽田空港なんだけど、いま北林さんと会う訳にはいかないんだよ。誰かに言われて連絡をとってきたの?」
「誰かに頼まれた訳ではないですよ。私なりに考えて早急にお会いしたいと思っていますが」
「いや、北林さん、いまは絶対に会う訳にはいかないんだよ。申し訳ないな。何か伝えたいことがあるなら手紙で送ってよ」
これまでの河辺と違い、かたくなでそっけない対応であった。
このとき私はまったく知らなかったけれども、同月十三日付で日蓮正宗総監・藤本日潤より創価学会会長・秋谷栄之助宛に、「第三五回本部幹部会における池田名誉会長のスピーチについてのお尋ね」という文書が出されていた。宗門より創価学会に対する詰問状である。この文書はのちに「お尋ね」文書と称されるに至るが、創価学会を難詰するにあたり、池田名誉会長のスピーチを問題にしている。宗門側が問題発言としたのは全部で十五カ所あるが、それをもとに創価学会を問い詰めるにしては、録音テープの反訳に初歩的な間違いが多かった。
さらには、ベートーヴェンの第九を創価学会が会合などで歌うのは、
「歓びよ、神々の美しい輝きよ、楽園の娘よ、我ら炎のごとくに酔い、天の汝の聖殿に足をふみ入れる」
という歌詞があることから、外道礼賛などと難クセをつけるものであった。
しかも、
「到達の日より七日以内に宗務院に必着するよう、文書をもって責任ある回答を願います」
とも記されていた。
宗門側は創価学会の池田名誉会長を追い詰めるために、手を打ち始めていたのである。
日顕が会おうとしていた者たちの素性
しかし、私にはそのようなことを知る由もなかった。いったんは河辺への接触をあきらめたが、そこにとんでもない情報が入ってきた。藤原行正の手下である押木二郎が、高橋公純の口利きで、段勲とともに同月二十五日、総本山大石寺において日顕と会うというのである。
藤原行正は昭和三十八年四月から平成元年七月まで七期二十六年、公明党の東京都議会議員を務めた人物であるが、衆議院議員になれなかったことを逆恨みしていた。果ては自分の次男・範昭を戸田城聖創価学会第二代会長の生まれ変わりであると信じ、池田名誉会長を倒してわが子・範昭を創価学会会長に据えようとした強欲な男である。
あろうことか藤原は、池田名誉会長を亡き者にしようと、昭和六十三年九月十八日、暴力団幹部に、着手金二億五千万円、成功報酬二億五千万円の合計五億円で、暗殺依頼までしたことがある。
押木二郎は、その藤原がお手盛りで作った「池田問題対策事務所」の事務局長を称し、藤原から給料をもらっていた。その事務所は、藤原の所有する東京・杉並の高円寺駅南口ロータリーに面するマンションにあった。押木はそこでマスコミ関係者と会い、さまざまな情報操作をしていた。押木は数人の仲間とともに、聖教新聞社の業務用無線(「聖教1」「聖教2」)、ならびに創価学会本部周辺で発せられる警備関係の無線傍受に努め、それをもとに情報をでっち上げた。たとえば、池田名誉会長の移動などに関する情報をマスコミにリークし、あたかも池田名誉会長の側近に自分たちに協力する造反分子がいるかのように装ったりしていた。
押木とともに日顕に会う高橋公純は当時、群馬・本応寺の住職をしていた。高橋はもともと反創価学会の急先鋒であった。しかし、昭和五十六年から五十七年にかけて、反創価学会の出家ら(正信会)が擯斥処分された時には、その処分を免れるために鳴を潜めた。高橋は日蓮正宗内における正信会の残党で、暗然としてくすぶり続ける反創価学会勢力の中核メンバーであった。
段勲は高橋の実弟である。段はルポライターで、高橋と連携しながら『週刊ポスト』『週刊文春』『週刊実話』などのマスメディアを中心に、絶えず反創価学会の記事を書いてきた人物である。その段が日顕に直接、会う。段がこれまで「日顕に相承なし」との記事を書いてきたことと考え合わせてみると、これは驚くべき事態の変化であり、決して看過できることではなかった。しかも、この段と山崎正友は長年にわたり極めて密接な関係にあった。ことに日顕が登座した昭和五十四年当時、段は「日顕に相承なし」として、週刊誌等に日顕を執拗に批判する記事を書いたが、この裏にいたのは山崎である。
このような者たちと日顕が、来たる十二月二十五日、大石寺の奥の院ともいえる内事部において、直接会うというのである。
これは、日顕が自尊心をかなぐり捨ててまでも、反創価学会であれば誰とでも手を結ぶという錯乱した状態にあることを示している。さらには山崎と連動する正信会を復帰させ、正信会の者らを使って創価学会攻撃をさせることを視野に入れているとも考えられる。いよいよ大変なことになった。
河辺に会いに北海道へ
河辺は昭和五十七年、正信会の者たちを日蓮正宗より擯斥処分にしたときの立役者であり、日顕が宗政において重要な判断をする際、その要となった人物でもある。しかも、河辺が山崎に対して抜きがたい嫌悪感をもっていることは、これまでのつき合いからもはっきりしていた。
十二月二十五日に押木、高橋、段らが日顕に会うのであれば、その時までに私が河辺に会い、河辺を説得して日顕の狂気に満ちた行動にクギを刺させるか、それが無理なら、創価学会首脳が接触すらできなくなった宗門中枢の腹の内を聞き出す必要があった。私は、河辺が私と会うのを拒もうとも、こちらから日正寺に押しかけ直談判しようと考えた。河辺に会うタイムリミットは、遅くとも二十五日。この日の午後一時、日顕は押木、高橋、段らと会うことになっている。そこで日顕が押木、高橋、段らのペースにはまって、動き始める公算は大である。それを阻むには一刻を争う必要があった。
十二月二十三日、私は自分の経営する(株)報恩社(当時、東京都豊島区)の社員・平野孝(仮名)とともに札幌行きの航空券の手配をした。しかし、クリスマス前後の札幌行きはいずれも満席であった。特に二十五日は、すでにおびただしい数の人がキャンセル待ちをしており、まったく無理だという。しかし、いずれかの便で札幌に行かなければならない。そのうちキャンセルが出てやっと取れたのが、二十四日のJAL五二三便である。これは最終便の一つ前の便であった。どうしてもこの便しか取れない。やむなく今度は札幌のホテルの手配に入った。しかし、二十四日はクリスマス・イブである。ホワイト・クリスマスを札幌で過ごそうというロマンティックな人々のおかげで、ホテルも予約がまったく取れない。
「この際、行くだけ行って、泊まるところは札幌で探すか」
などと、平野と切羽詰まって話し合った。それでも、何十カ所ものホテルに電話した甲斐があり、偶然キャンセルが出て、ホテルアーサー札幌にツインの部屋が取れた。帰りの二十五日の夜に千歳空港から羽田空港に向かう便の予約は、なんなく取れた。
日正寺の行事の関係上、河辺が二十五日の午後、日正寺にいるのはほぼ確実であった。私は二十五日午後に日正寺を訪ね、河辺に会おうと決めた。一発勝負である。河辺に対する手紙も用意した。同行する平野には、緊急連絡に備えショルダーホン(当時、コンパクトな携帯電話はなかった)と、記録化のためのワープロを携行させた。
二十四日のJAL五二三便は羽田発十八時〇分、千歳空港到着が十九時二十五分である。空港から札幌市内までバスに乗った。途中、マイナス五度を表示する電光掲示板が見えた。
「やっぱり北海道は寒いな」
広島生まれの私にとっては、零下五度のなかで動き回ること自体、不安だった。その不安感は、河辺との話し合いの成り行きに対する不安感と重なっていたのかもしれない。見慣れぬモノトーンの風景がバスの窓外に広がっている。歳末のにぎわいとは無縁の、静かな凍てついた光景である。物悲しかった。創価学会の行く末が案じられた。
全日空ホテル前でバスを降りた。予約したホテルアーサー札幌まではタクシーに乗っていった。チェックインして、ホテル高層階の部屋に落ち着いた私は、眼下に広がる、雪に埋もれた札幌の夜の街並みをぼんやり眺めた。車の尾灯がやけに明るい。その細長く赤い色は、目を閉じても、脳裏に軌跡を描いていた。
「確かにこの一年は、変な年だった」
私は頭の中で一年を振り返っていた。
池田名誉会長に反感を抱く者らがうごめき始める
この年(平成二年)の一月、『福田』という小冊子が創刊された。『福田』は「ふくでん」と読む。連絡先は「山桃塾」となっており、その住所地を調べてみると、山崎の配下として長年にわたり反創価学会の策動をおこなっていた梅沢十四夫の居住するアパートであった。私は昭和四十八年以来面識があったから、梅沢のことはよく知っていた。
『福田』と命名したのは、当時本応寺住職であった高橋公純で、題号も高橋自らが墨書したものである。高橋は『福田』創刊号に、「戸井田巌」というペンネームで、「日蓮大聖人『見聞録』」と題する文を書いている。
創刊号には、「蘇生への選択」と題する記事も掲載されており、こちらは、創価学会の元副会長である福島源次郎と、南条白山を称する人物(のちに埼玉県在住の元地区部長・渡辺隆と判明)が、創価学会批判の対談をしていた。山崎の配下である梅沢十四夫が発行者となっている『福田』に福島が登場しているのは注目に値することであった。
福島は創価学会副会長であった昭和五十四年三月、九州・大牟田において細井日達管長に直接言及する宗門批判をし、池田大作会長勇退の直接的原因を作った人物である。その後一時、創価学会内で謹慎的処遇を受け、将来、創価学会会長になる芽がなくなったと判断した福島は、創価学会に反旗を 翻し、池田名誉会長批判に転じた。この福島が梅沢という人物についてどの程度のことを知っているかは別にして、現に福島が山崎の 掌にあることを、この対談記事は示していた。看過しがたい動向といえる。
私はこのように、『福田』が山崎の配下にある梅沢によって創刊されたことによって、長年動きを秘匿してきた山崎が、いよいよ表立って動き始めたと見た。山崎が動きを表面化させる前に充分な仕込みをすることは、長年、山崎と戦ってきた私にはよくわかっている。山崎の思惑どおり、なんらかの動きが進んでおり、それを側面支援させるために『福田』を創刊したと私は分析した。
平成二年四月には『福田』二号が発刊され、そこに掲載された「牧田隆」創価学会副会長とやらの手記がマスメディアをにぎわすことになる。断るまでもないが、そのような手記を書く副会長など、いるはずもなく、手記の内容もまったくの事実無根であった。牧田手記には次のように書かれている。
「《特別御形木御本尊》を大量偽造して現在の貨幣価値に換算して、約百億円。又、こうして得た資金を元にして墓地を造成して二千億儲けたのです」(一部抜粋)
創価学会が本尊を偽造したという、ニセ副会長の「暴露記事」であった。
本来なら、このようなミニコミ誌のデタラメな報道は、週刊誌などに取り上げられることもなく無視されるのだが、こと話題の対象が創価学会であるだけに、万犬、虚に吠える愚行の引き鉄となってしまった。虚報が虚報を呼び、日本国中にこだましたのである。なお、創価学会副会長「牧田隆」を詐称する梅沢の書いたこのデッチ上げ手記を、マスメディアに持ち込んだのは段勲であった。しかもこの時、『福田』二号は完成しておらず、この牧田手記のコピーが五部あったきりである。
その後、同年四月から七月にわたり、『夕刊フジ』『東京スポーツ』『週刊実話』『週刊新潮』『週刊文春』などで、創価学会が特別御形木御本尊を偽造し金儲けをしたとの悪質なデマ記事がマスメディアをにぎわす。それらの記事のライターは段勲、内藤国夫、乙骨正生などであった。
だが、特別御形木御本尊が創価学会によって大量に偽造されたとするニセ副会長の手記は、マスメディアに報じられることにより、あたかも事実のようになってしまった。
山崎の部下である梅沢と、『福田』グループの活動は、こうしたマスコミの動きを背景としてますます活発化した。同年六月、彼らの主催する座談会に石田次男の妻が出席した。石田次男は戸田会長の時代、青年部の中核幹部として活動した実績があったが、池田名誉会長に怨嫉し、退転した者である。
池田名誉会長に反感を持つ古参幹部の中には、戸田会長が石田次男に創価学会第三代会長を務めさせたがっていたと、まことしやかに話す者もいる。だがそれは、昭和二十年代および三十年代前半における創価学会の実情を知らない人々が多いのをよいことに、事実に反する妄言を吐いているだけのことである。
不穏な動きに見え隠れする狂気
平成二年八月末、総本山大石寺で教師指導会が開かれ、そこにおいて二十一項目の「綱紀自粛」が徹底された。その内容は、
「少欲知足を旨として、行住座臥に身を慎むこと。妄りに遊興に耽り僧侶として信徒や一般から非難・顰蹙を買うような言動は厳に慎むこと」
「僧侶としての品位を汚すものは禁止する。また、華美・贅沢なものは慎むこと。寺族の場合もこれに準ずる」
などといった、出家であれば言わずもがなの徳目が記されていた。なかには、
「価格・車種などそれぞれの分を弁え、決して贅沢なものは選ばないようにすること。また、僧侶として相応しくない形や、赤い車など、派手な色は禁止する。寺族の場合も、僧侶に準じて自粛すること」
などという、あまりに低次元な細目に及ぶものまであった。
その後のマスメディアの動向はまったく不可解なものであった。そのほとんどは、創価学会と日蓮正宗との間の分裂の危機を強調したものであったり、あるいは日蓮正宗が創価学会の池田名誉会長に対し追放処分をするよう求める怪文書を紹介した記事であったりした。
こうしたマスメディアの動きに協調するかのように、宗門内部の正信会残党を中心として、池田名誉会長追放の過激な発言が目立つようになった。池田名誉会長に対する感情的な発言は、この平成二年の年頭より宗門内でささやかれるようになったが、綱紀自粛後は密談がなされ、追放が語られるようになってきたのであった。
このように見てくると、状況が逼迫していたことは間違いない。
私が札幌を訪れる一週間ほど前には、ある情報ルートにより、創価学会攻撃の手始めとして、まず池田名誉会長を日蓮正宗の総講頭より罷免するとの噂も私の耳に入っていた。確かにそれもあるかもしれない。さまざまな事件に関わってきた私だが、このとき感じ取った逼迫した状況は、これまでのものと違う。日顕が宗教的「権威・権力」をもって創価学会を砕きにくることすら考えられる。散見される不穏な動きのなかに、私は狂気を垣間見た。創価学会・宗門を覆う緊張感からして、その狂気が私のこれまで経験したものでないことは、明らかであった。
「創価学会は真っ二つに割れるかもしれんな。前回の宗門問題とは規模が違うぞ」
私は問わず語りに、同行した平野に語った。平野は私を凝視した。
いよいよ河辺の日正寺に乗り込む
翌二十五日正午にホテルをチェックアウトし、平野と昼食をとったのち、私はひとりで河辺のいるであろう日正寺にタクシーで向かった。車中、私は河辺がかつて妙因寺(東京都江東区)の住職をしていた時代に話したことを思い出した。
「名誉会長が亡くなられた時には、創価学会にしてもらわなければいけないことがある」
河辺はそのことを私に洩らした後、ふと考え込むように沈黙した。私は、
「それはなんですか?」
と間を置いて聞いたが、河辺は、
「今は絶対に言えない」
と固く拒んだ。このことからして、河辺が創価学会に対する「Xデー」を、池田名誉会長の死の直後に定めていると私は判断していた。従って、今、日蓮正宗が創価学会に対してなんらかの挙に出ようとしているならば、河辺が池田名誉会長の没後に「Xデー」を定めているという戦略性の故に、現在の対創価学会への行動を軽挙妄動として日顕に思いとどまらせる可能性があると読んでいた。
午後二時、雪化粧をした日正寺の正門に立った。私は受付で名前を告げ、住職である河辺への面会を要請した。しばらくして受付の者より、
「客間にご案内します」
との返事。二階に上がり本堂で題目三唱。再び一階に降り、客間である和室に入った。
河辺の雰囲気は、これまでになく極めて悪かった。私がなんの用事で来たのか窺っている様子がありありと感じられる。会話中も、私とほとんど目を合わせようとしなかった。
私は、
「宗門の中に入ってくる情報ルートは、高橋公純ルートや国際センターのI(のちに退職)グループなどに見られるように、偏りがありすぎる」
ということを力説した上で、
「そのような操作情報に乗せられると、とんでもない判断ミスをする」
と警告した。それに対し河辺は、
「宗門は公純ごときの情報に左右されることはない。Iについては私生活が乱れており信用できない。宗門はしっかりした情報に基づき判断している。最近の池田名誉会長はおかしい。話しているテープも聞いた。宗門を悪しざまに批判している」
と述べた。私は高橋公純が実弟の段勲や押木二郎らとともに、今頃ちょうど日顕に会っているな、と思いながらも、目の前の河辺がとぼけているのか、あるいは本当に今日、高橋らが日顕に「目通り」することをまったく知らないのか、判断しかねていた。
「公純は『池田名誉会長を処分し、創価学会が独立路線を選んだところで一気に切り崩し、信者を獲得しよう』などと、あちこちで吹聴していますよ」
と突っ込んだが、河辺は、
「創価学会が独立するなんて思っていない。独立するなら準備期間が要る」
と言いかわした。私はそれに対して、
「公純ひとりじゃありませんよ。今年の初めから、何人かの僧侶が『開創七百年で創価学会は破門』と言っています。そんな話が宗内を飛び交っていて、創価学会に聞こえないと思うのですか」
と言った。河辺はそれには直接答えず、
「あなたから電話があった時、学会はすべて宗門との道を閉ざされたのかと思った」
と述べ、
「今は自分が出ることはない。そんな話もない。爆発するんだったら、したほうがいいと思っている。ものごとは行き着くところまで行かないと収まりがつかないことがある」
「自分がまとめるとしたら、やり方はある。しかし今は誰にも言えない。実は、出てきてくれとも言われているが断っている」
とも語った。
これらの河辺の話からして、日蓮正宗側は相当程度に腹をくくっていることがわかった。河辺の口調はこの日、一貫して激越であった。
その河辺が、
「『猊下に信伏随従しなければ、戒壇の大御本尊様にお目通りできないぞ』と言ったら、どうなると思う!」
と言って大きな手ぶりをした。両手の掌を内側にし、指先を合わせ、上から下にバサリと、扉を落とすように下げ降ろしたのである。
「多くの僧侶は耐えられませんよ」
私は、
「ついに腹の内が読めた」
と思った。日蓮正宗中枢の本音はそこにあったのだ。河辺は一気にまくし立てた。
「私が四国・徳島の敬台寺にいた時、高知で大乗寺の離脱事件があった。大乗寺側について千人くらいの信徒が離れていく形勢にあった。私は乗り込んでいって、『戒壇の御本尊様から離れるのか』と一人一人に話して歩いた。最後に離れていったのは、三十何人しかいなかった。
今回の件も、最後は一人一人に、『戒壇の御本尊様から離れるのか』と聞くことになる。学会員一人一人が自分で判断しなくてはならない」
と述べた。私は宗門首脳の腹の内が充分すぎるほどわかった。河辺は情報源についても、
「宗門には大変な人間から連絡が入っているんだ。この人の名を言うだけで、創価学会はつぶれる」
とも述べた。その大仰な言い方からして、私は「ははーん」と、ある筋のことを考えた。思い当たる名前もあったが、河辺に聞いた。
「それは誰ですか?」
河辺は口を割らなかった。私は話を転じ、
「ところで、八月末の教師指導会で綱紀自粛のお達しがありましたね」
と探りを入れた。
「あれは俺がやったんだ」
河辺が即座に答えた。
「その後もゴルフをやってるのがいますよ」
私は平然と言ってのけた。
「なに! ゴルフをやってるのがいる?」
河辺が愕然としたことが見て取れた。その後、私は僧侶の腐敗について具体的事例を挙げて力説し、
「全国の各末寺で僧俗がぶつかり合い、騒擾状態になって、両者に埋められない溝が残りますよ」
と警告した。
「スキャンダル合戦になるかな」
河辺がぽつりと聞いた。
私は、
「そこまで行ったらおしまいでしょう。多くの僧侶は耐えられませんよ」
と、さらに具体的事実を指摘した。
この日の河辺との話は二時間四十分に及んだ。午後四時四十分に日正寺を去る時、河辺夫人が玄関まで送ってくれた。玄関を出て私が振り返ると、夫人は上がりかまちの絨毯の上で三つ指を突き、頭を下げていた。私はそれを見て、永遠の別れの挨拶をしていると感じ、日蓮正宗首脳の意思は固いと踏んだ。
急ぎホテルに帰り、同行した平野とロビーで合流。すぐさま河辺との話を、ホテルのティー・ラウンジ、バス、空港待合室と移動しながら、平野にワープロで打たせ、詳細な記録とした。千歳空港二十時二十分発のJAL五二四便に搭乗し、一路、東京へ。羽田空港に降り立った私は、タクシーに乗り首都高速道路を走り、創価学会本部へと向かった。